たかされコラム

伊藤郁子遺作展-1

伊藤郁子さんの遺作展を覧て来た。 伊藤郁子さんとは高校の先輩ということのほか、私の亡き母が同性同名で少し親しみを感じていたこと以外にほとんど接点は無い。一年に一回赤光社行動展の会場で一目で伊藤さんの筆によるものだとわかる作品に出会うだけだっ…

雪五尺

雪五尺新参者は積もっている雪を見て「あー今日もか」と嘆きながらも、多少見栄を張るように元気なふりをして雪を掻いてしまうのである。隣近所の人と嘆きながらも雪掻きを終え多少の雪克服感を満足させるのである。雪は敵である。雪掻きをしないで「是がま…

雪五尺

実際に雪に埋もれようとしている我が家そして我が身を句にしようと「庭の木のみな溺れをり…」までできた。手入れの悪い庭木のうち躑躅やシャクナゲなどは八割方雪に埋まり、木蓮やライラックなどの木も枝という枝に重そうに雪をまとわりつかせている。屋根か…

雪五尺

よく知られた小林一茶の句に「是がまあつひの栖か雪五尺」というのがある。一茶は越後に近い故郷信州柏原で逆境の晩年を過ごした。信州柏原は豪雪地帯でもある。一時俳諧師をめざして暮らした江戸のことも頭の隅にありながら郷里に埋もれていくしかない一茶…

巴郷散策・二十八番地

あらためて考えると高校生になった頃から私にとって二十八番地は単に「家がある場所」になってしまった。近所の子と遊ぶこともなくなり、歩き回ることもなくなった。となりに豆腐や納豆を買いに行くこともなくなった。私が就職して函館を離れ、再び渡島に帰…

巴郷散策・二十八番地

一棟四軒、一軒二間の引き揚げ者住宅が幾棟あったろうか一街区を作っていたその北側に小さな児童公園を挟んで二十八番地はあった。私の家は中道路に面して建てられた。借地である。隣に五人兄妹がいる吉川豆腐店、向かいに佐々木さんと工藤さんと言う家があ…

巴郷散策・二十八番地

父や母が元気だった頃家族で昔話をすると時代区分は住んでいた家の住所で言いひっくるめていた。「それは八番地の時だよ」とか「二十八番地の台所でさ」などという言い方である。今日の散策は「二十八番地」の辺りからである。 図書館の駐車場に車を置いて裏…

雪掻き2003年

教室での一日の準備をしながら登校してきた子ども達と他愛のない話をしているうちに朝の職員打ち合わせの時間になる。三階のホールの窓から見ると遅刻しそうな子なのに急ぎもしないで歩いてくる。私がさっき付けた一筋の道は今はもう巾広く踏み荒らされてし…

雪掻き・2003年

毎朝私が開錠する。誰もいない校舎内の一階から三階を三周ランニングする。当然校舎内を走ることは禁止されている。古今東西どこの学校でも「廊下は走らない」だ。私も走った児は叱る。けれどそれは他の人に危険だし大きな迷惑を掛けるからだ。誰もいない校…

パンダ

晩酌をしながらテレビを見ていると、何度もそしてどこのチャンネルも「パンダ」である。それこそ老若男女みんなが「かわいい」と言い、一人無関心さえ許されない怖さも感じるが、パンダが「かわいい」ことには私も異論は無い。 嬉しいことがひとつある。この…

ききょうの里自治会

私がこの地に移ってきたのが40才代。引き込まれるように役員になったが、先輩の皆さんが亡くなられた今生き残った私が心太が押し出されるように会長になっている。雑用処理に少しは役立つくらいのものしか持ち合わせていない身には今程度の活動しかできな…

ききょうの里自治会

かくして大きな既存町会の一班にすぎなかったわずか22戸による「ききょうの里自治会」という函館市で一番小さな町会が誕生した。昭和が平成になるというころのことである。 環境美化や親睦、道路維持や研修活動など小さいながら活動してきたが「ききょうの…

ききょうの里自治会

ききょうの里自治会 私は人生の中で一番になったこともなければ、一番のグループの一員だったこともない。それが、実は、私の所属するグループが、「函館一番 」だということにこのごろあらためて気づいた。賞状も出なければトロフィーもない。その上大きな…

最後の受験

私は生まれ変わる事が出来るなら、来世は大工さんか建具職人に生まれ変わりたいと思っている。時代としては縄文時代が希望なので、大工さんがその時代専門職人としてポジションされているかどうか心配だけれど、願いとしてはそう思っている。 十二年前退職し…

私の芭蕉十句

「飲み会という句会」と言うべきか「句会という飲み会」と言うべきか、要は月一回集まって句会の後にしっかり飲み会をする仲間が居る。その一人がある本を紹介した。全国三百人余の俳人に「好きな松尾芭蕉の十句」を挙げて貰い、点数をつけてその中でのラン…

山形の柿(2)

木箱は玄関からほぼ一年中据えられっぱなしのストーブがある板の間の隅に置かれていた。夜中、便所に起きたときなど、大きな存在感がありまるで生き物が息をしているように私には感じられた。 二日後ぐらいだったと思う。学校から帰ると母は留守で、おばあち…

山形の柿(1)

山形の柿 子どものころ毎年この時期になると山形から柿が送られて来た。宛先は母方のおばあちゃんこと山本乙女様で差出人は山形県東田川郡羽黒町の当時既に亡くなっていたおじいちゃんの実家だった。戦後樺太から引き揚げてきた我が家は、シベリア抑留帰りの…

たかされ紀行・雪花山房の蕎麦(3)

霧雨を避け一刻車で時間をつぶし十時半、少し早いかなと思いながらも会場に行くと、雪花山房のブースの前にはもう既に行列ができていた。打ち場では高橋さんがさっきと全く同じ姿勢でのし棒を操っているのがギャラリー越しに見える。食べる人は私の前に三十…

たかされ紀行・雪花山房の蕎麦(2)

弟子屈の道の駅に着いたのはそば祭り前日の夕方。阿寒・摩周観光の拠点だからだろうかたくさんの本州ナンバーの車に囲まれて私の車が小さく感じられる。 翌日、蕎麦の旅車中泊二日目の朝はすごい雨音で目が覚めた。そば祭りはできるのだろうか、できたとして…

たかされ紀行・雪花山房の蕎麦(1)

車で、独り往復千三百キロかけて一杯の蕎麦を食べんが為に弟子屈町のそば祭りに行ってきた。高橋邦弘さんという蕎麦職人が手打ちした蕎麦を食べるためである。 高橋さんは東京「一茶庵」で修行して東京「翁」を開店後、山梨「達磨」今は広島「雪花山房」と店…

私はサッカーサポーター(2)

その頃兄から二つのことを聞いていた。ひとつは「日本のサッカーはプロチームができなければならない」ということと「そのために子どもたちにサッカーを教え、底辺をひろげなければならない」ということだった。地元に、当時卒業生のほとんどが教員になる教…

私はサッカーサポーター(1)

私のサッカー暦は長いといってもプレイヤーとしてではない。サッカーサポーターとしてである。もちろんその頃はサポーターなどという言葉も無かったが。 サッカー観戦の始まりは中学生の頃からだからもう60年も前になる。当時の函館には実業団のチームがい…

黒い薬(3)

採用試験に受かったものの四月採用に漏れ、私が島牧村の教員に採用されたのは卒業した年の十月だった。祖母は認知症(当時の病名は違っていたと思うが)が重く寝たきりで長期に入院していたし、母も体調をくづして入院しているときの赴任支度になった。だか…

黒い薬(2)

ゲンノショウコである。 山形の郡部で育った祖母は、結婚した警察官の祖父と樺太に渡り、次女の私の母が樺太庁に勤めていた父と職場結婚結婚すると、祖父が亡くなった後ずっと我が家にいた。戦後、父がシベリアに抑留されていた中での混乱の引き上げの時は祖…

黒い薬(1)

私が子どものころ我が家には「黒い薬」と呼ばれる薬があった。本当の黒色で子どもの手に余るようなこれも黒褐色の広口瓶の底に剥がれまいとするようにこびりついていた。 そしてその瓶は茶箪笥の最上段の左隅に眠るようにあった。 粗食や堅い物に鍛えられて…

私の五稜郭公園(2)

そんなさびしい五稜郭公園が昔函館の主役になったことがある。函館公園とともに北洋博覧会の会場になったのである。準備期間中から立ち入りができなくなった。といっても濠で囲まれているので表門と裏門を閉じれば誰も入れなくなる。お金を取る会場としては…

私の五稜郭公園(1)

私の五稜郭公園 最近五稜郭公園の外壕の石垣が崩れ今年の野外劇は壕は使えず奉行所横の広場で開催されるそうだ。 私が近くに住んでいた小学生の頃は、石垣の崩れはあちこちにあり、そこは私たちの格好の遊び場だった。今で言う「親水」場所だったのである。…

山の昼飯(2)

何を 近くの日帰り登山の時は、基本的に自分が握った握り飯二個のことが多い。これが一番美味しい。他の人の昼飯を覗いても握り飯の人が多い。冷たくならない、手袋でも食べられる等の利点からパンの人もいる。また、ガス、コッフェル持参の簡単調理で山の雰…

山の昼飯(1)

何処で 山の昼飯は、そこで飯を食うのが目的でもあったかのように、そして当然のように山頂で昼飯の包みを解く。もう登らなくても良いし、喉が渇き腹も空いているような気がする。周りの眺望は非日常の大風景の中だ。食べ物を美味しく感じる条件がそろってい…

南瓜ご飯(3)

歌志内でもう一つの記憶がある。 ある夜のことだ。雑貨屋をやっているおじさんの店のガラス戸をたたく音がする。ガラス戸がガシャガシャ音を立てる。「店閉めたのにねー」と呟きながら出て行った叔母さんの声が急に大きくなった。声の意味を聞き分けた家中の…