私の五稜郭公園(2)

 そんなさびしい五稜郭公園が昔函館の主役になったことがある。函館公園とともに北洋博覧会の会場になったのである。準備期間中から立ち入りができなくなった。といっても濠で囲まれているので表門と裏門を閉じれば誰も入れなくなる。お金を取る会場としてはまさに難攻不落である。博覧会が始まり、賑やかな音楽や雰囲気が五稜郭公園から閉め出された子どもたちを誘う。当時の博覧会は、今よりも産業博覧会の要素が強かったのか、学校でも家でも連れて行ってはくれそうもなかった。単に貧乏だったからかもしれない。
 それがあるとき耳寄りな情報をもたらしたやつがいた。「裏門橋の所、水が乾いて渡れるかもしれない」と言うのである。行ってみると、干したのかどうか水がない。あまつさえ背の高い蘆が茂っている。私たちは石垣を伝い降り蘆の根を踏み蘆の間を走り抜けて、石垣をよじ登って入り込むことに成功した。石垣を遊び場にしていた私たちには簡単だった。しかし今、会場内に何があったか何を見たのか全く印象にない。見ても分からないことばっかりだったのかもしれない。入り込んだことだけが強く記憶に残っている。
冬になると濠は凍る。私はあるとき思いついて崩れた石垣の所からおそるおそる氷の上に出て、公園を挟んで丁度反対側にある高校の近くまで凍った濠を歩いたこともある。濠に沿って道があるのでたいした近道にはならなかったはずである。くだらないことなのに印象に残っていることの一つである。
 その後五稜郭公園は、観光の目玉として保護され、整備された。奉行所も復元され異国語が毎日のように飛び交っている。夏、野外劇が大音響やレーザー光線を飛ばす。毎朝散歩やマラソンの人で賑わい愛されている。一方私は五稜郭公園の側をはなれて五十年、年齢を重ねた分五稜郭公園は遠くなった。
 石垣が崩れたと言う今年、花見の足が崩れた石垣を探し当てた。そこで釣り糸を垂れる子どもの私はいない。そこには縄が張られ「立ち入り禁止」の立て札が立てられていた。
 五稜郭公園を我がもののように遊んだ私にとってはやはり「あのころは良い時代」だったのだろう。(終わり)