南瓜ご飯(3)

 歌志内でもう一つの記憶がある。
 ある夜のことだ。雑貨屋をやっているおじさんの店のガラス戸をたたく音がする。ガラス戸がガシャガシャ音を立てる。「店閉めたのにねー」と呟きながら出て行った叔母さんの声が急に大きくなった。声の意味を聞き分けた家中の人が茶の間から店につながる引き戸の所に集まった。声の意味が分からない私はみんなの見るものを見た。張りを失った針金から下げられた、ところどころにシミのあるシーツのようなカーテンがだらしなく左右に半分ほど開かれ、横長のガラスが嵌め込まれた引き戸の闇に店の電球の乏しい明かりを受けた下級の兵服姿があった。おばさんが何か言いながら捻子式の錠を回している。父がシベリア抑留から帰ってきたのである。
 私の記憶にあるのはガラス戸の向こうに立つカーキ色の兵服に身を包んだ父の姿だけである。後は想像である。「帰ってきた」と言うことが、抑留中に極寒と重労働と飢餓の中で多くの日本兵が亡くなった「地獄からの生還」という意味も含んでいることに気が付くはずもなかった。家族と親戚の大喜びの中で記憶の抽斗ができたのだろう。
 この二つの記憶が結びついたとき、好景気の炭坑町で商売をしていた親戚のお世話になったから米のご飯が食べられていたと言う思いは自分勝手な妄想だったことにきづかされたのである。そう思いこんでいて誰にも確かめることすらしなかった。ずいぶん太平楽な妄想だったことに気が付いたのは恥ずかしながら最近のことである。
 あの馥郁たる南瓜飯は大切に大切にとっておいた米だけでは足りなかったからか、赤飯にする小豆が手に入らなかったからか、叔母さんたちの苦労の心づくしだったし、それほど父の生還の喜びが大きかったのだろうと思う。その後の吾が一家の歩みを考えれば、希望も見えていた父の生還だったにちがいない。
 とすれば、私は我が伊藤家戦後再生の第一歩を記す食事を記憶していたことになる。
 少し前までは「南瓜ご飯」炊いてみようかと思っていた。今南瓜ご飯は簡単に出来るだろうから…。しかし、止めることにした。米を手に入れる苦労や、炊く喜び、父を柱に活きていけるという期待の込められた味を味わうことは出来ないし、二度と味わってはいけない味だからである。(終わり)