山吹

 私が五、六歳か、今に繋がる記憶の多くはそのあたりからである。その映像の中に山吹がある。

 樺太から引き揚げ、父が函館に得た職と住まいは函館引き揚げ者援護局と言う役所で,用の無くなった陸軍の施設が局舎となった。隣接の陸軍病院は国立病院となり、兵舎は小学校になった。そして陸軍の将校さんたちが住んでいた官舎が援護局員や国立病院につとめる人たちの住居になった。私の家も石井さんという夫婦との二世帯でその一軒に住んだ。その前は短い期間だったとは言え、二間の引き揚げ者住宅に6人で住み、押し入れで寝ていたことを思えば贅沢とも言える家だった。かまどがあり、広く黒光りする板の間の台所。五右衛門風呂、便所は共用、6畳二間と3畳一間が我が家。8畳一間に石井さん夫婦が暮らした。縁側があった。そして庭があった。玄関から門まで7,8Mもあり広い庭があった。右側は板塀があり、その下に掘ったくぼみをくぐれば小学校があり、グランドがあった。左側は同じ建物で多分国立病院のお医者さんが住んでいたはずだ。その家との境はえぼたか何かの垣根だったと思う。そして縁側から見る正面、門の両側の山吹が道路から家を隠していた。

 住んでいたのはせいぜい二年くらいだったと思うが、その庭で思い出すのは李の木の李、隣の庭の松の木肌、そして山吹のオレンジ色である。李は怒られながら酸っぱいうちから食べるものだったし、そのために木登りの木だった。隣の家の松の木は太く、かくれんぼで隠れたときの頬の感触である。山吹はガキにはただだいだい色だった。

 今我が町内も高齢化が進み、ちょっと前までは競うように庭に野菜や花を育てていたが、この頃は庭の花も庭木も手が届かず、草に負け気味である。そんな中ふだんはただ緑の垣根だった所にオレンジ色の花が咲き出し「山吹だ」と山吹の存在に気がつく。

 李の味は忘れた。頬は木肌の感触も忘れてしまった。しかし山吹のオレンジは一瞬に70年を飛び越える。

  山吹やデイサービスの送迎車   未曉