山本乙女・と私

 父が無事帰ってきた。この時が我が家の終戦日だった。長男を失っていた。私は記憶がなく実感が希薄だが、冬至の誰もがそうであるように、両親にとっても恨み骨髄の戦争であった。父は、家を追われ、長男を殺され、自分にシベリア抑留生活を強いたソヴィエトを酒を飲めば「露助露助」と恨み蔑んでいた。
 樺太庁につとめていた関係か引き揚げ援護局に職を得た父と共に、引き揚げ船の受け入れ港函館に住むことになった。港町の引き揚げ者住宅、千代田小学校横の倉庫、千代ヶ岱町135番地の陸軍官舎、五稜郭町8番地の借家そして五稜郭町28番地の借地に家を建てて我が家は落ち着いた。
 おばあちゃんは母の家事を手伝うと言うより自分がやるべきことを自分で見つけて我が家の生活を豊かにしてくれていた。洗い張り、漬け物づくり、節句ごとのご馳走作り、布団などの手入れなどをてきぱき動きながらやっていた。母が入院したときは食べ盛りの3人の男の子がいる家庭の主婦もやってくれた。
 その頃の我が家の食事時は長方形の食卓に正座していた。座る場所も決まっていて、ストーブの焚き口に父、その隣に兄二人、父と対面して私。その隣におばちゃんと母が兄たちと向かい合って座っていた。おかずは一人一人皿に取り分けられていた。焼き魚や煮魚の時おばあちゃんの前にはその皿はいつも無かった。肴を食べるのがへたくそな私の残りを「美味しいところばかり残してくれるから」と言って食べてくれていた。もったいないもったいないと言いながらいつも残りものばかり食べていたような気がする。東北、山形出身だからかもしれないが、私はそれだけでは無いようにも思っている。我が家はつましく生活しなければならなかったから…。
 おばあちゃんは私が函館を離れて就職した後、すぐ上の兄に背負われて入院し、周りの人も分からなくなり食事の後も空腹を母に訴え続けて逝った。報せを受けて「祖母の葬儀に行きたい」と申し出たら、当時の校長が「あなたはまだ就職して4ヶ月、年休は…」などと言い出した。「どうしても行きたい」というと周りの先生達が「行ってこ行ってこい」と出してくれた。それは生まれて初めて経験した葬儀でもあった。