東京滞在中のねぐらは娘たちのアパートである。それはさいたま市にあるので正確には東京滞在とはいえないが、電車に乗っていても家並みが途切れるわけでもなし県境を越えるという意識が無いので私のようなものにしてみれば「東京」そのものである。詳しくは合併前は与野といっていた所らしいが今は全国どこにでもある住所表示に変わってしまっている。古くは中山道の宿場町だったようだ。神社や町並みにその面影が残っているし、埼玉土産の定番老舗の煎餅屋さんなどが突然現れたりする街である。比較的広かった敷地を割ってアパートが建てられたようだ。アパートがやたら多い。先祖からそこに住んでいるお年寄りとアパートに住んでいる若いよそ者とによって形作られている街のようだ。
 道路がきれいである。ゴミが落ちているのを見なかった。車一台がやっと通行できる幅の狭い道路だからかもしれないが、道路も自分の家と言う意識があるのだろう。掃いている人をしょっちゅう見かけた。その上緑が豊かである。というより家々の庭の緑が狭い道路にこぼれんばかりに枝を伸ばしているのである。もちろんアパートの前は駐車場だけで、庭は無い。しかしアパートを建てたときに自分の家も建て直したらしい個人の住宅には花咲き誇る庭が必ずあった。一様に塀か垣根でしっかり囲われていて家の中を覗かれないようにしてある。と言うより自分の所有区分を明確にし、侵されないように砦が築かれている。そうされると覗きたくなるのが人情である。すると覗かれるのを待っていたかのようにきれいな花が咲いている。きちんと刈り込みされた庭木が艶やかな若葉色を滴らせている。隙が無い。孫でも乗るのだろうか。三輪車などがあるとほっとする。自分でする人もいるだろうし、庭師さんに頼む人もいるだろう。作品のような庭と庭の間を抜けて娘たちは通勤しているのである。その共通点(北海道の住宅の庭と比較しながら)を挙げると、閉鎖的である。密度が濃い。今流行のガーデニング的発想は少ない。菜園の類が無い。手入れが行き届いている。花木の種類が豊かである。
 庭では足りず、塀と道路の間のわずかな幅に棚を作り鉢を並べて花や緑を楽しんでいる人もいる。木や花が好きなのは北海道も埼玉も変わらない。しかし、庭に対する意識やアプローチの仕方は随分と違う気がした。こんな風に閉鎖的で木を自分に合わせて矯正してしまうような庭作りは好きになれない。かといって、今そこここで見られる人形や電飾で賑やかな庭はもっと好きになれない。
 あまり樹木に興味など無かった長女が、沈丁花とかノウゼンカズラだとかこともなげに口にする。「庭の木でそこの家の人とおしゃべりでもするのか」と期待しながら聞くと「写真に撮ってパソコンで調べるの…」と答えた。「まぁいいか。おれだってそんなもんだ。」と思った。庭は持ち主が自分で好きなようにやればいいんだ。でも…、自由奔放、まとまりの無い自分の家の庭が気になった。閉鎖的な庭とも賑やかな庭とも比べてももらえない気がした。