山本乙女・と私?

 山本乙女さんは私の母方の祖母である。私が生まれる前から私の家にいた。私が漢字の意味が分かるようになった頃は70歳の乙女さんだった。今から思うと失礼な話だが「おばあちゃんがこの名前で恥ずかしくないのかなー」などと考えたこともあった。
 山形で生まれ結婚し二男二女をもうけたが夫とは死別。私の母と末っ子の男の子を連れて再婚した相手が警察官でその務めの関係で樺太豊原市に住んだ。母が高女卒業後樺太庁に務めそこで父と知り合い結婚。乙女さんの夫や弟のことは私は聞いていない。きっと足音高く近づいてきた戦争に巻き込まれていったのだろうと思う。私の家に残っていた数少ない写真(引き揚げ時、没収消却されるので隠し持ってきた)にはもう家族として映っている。
 昭和19年頃父が応召、敗戦、シベリア抑留で父親不在の中私達一過の引き揚げが始まる。母と乙女さんと11歳、8歳、5歳、2歳の4兄弟の6人である。大泊で引き揚げ船に乗れず、家が無くなった豊原へ戻り、引き揚げ船が真岡港に着くと聞いて真岡へ…。しかし、樺太中の日本人が殺到している中すぐ乗船出来るわけもない。待つ間の家族6人の寝るところ、食べる物を確保するのは言語に絶するものがあったろうと思う。乙女おばあちゃんがいなかったらどうなっていたか分からない。そして長兄はここでロシア兵にけり殺されている。なぜか分からない。長兄は長兄らしく家族を守ろうとしたのだと思う。軍靴の固いつま先で頭を蹴られたと言うことをずうっと後になって乙女おばあちゃんから聞いた。母は絶対喋らなかったから。
 やっとの思いで引き揚げ船に乗船でき小樽に降り、父の兄弟が住んでいた歌志内に着の身着のままで転がり込んだ。
 ここで私の人生最初の記憶がある。小樽港の引き込み線路の上をおばあちゃんに手を引かれて歩いていた。転んで右手が鋭い物をつかんだらしく親指と人差し指の間から血が噴き出した。私は泣かなかったらしい。それまで引き揚げを待つ周りの人に気遣い、ロシア兵に見とがめられないようにとにかく静かにしていることをいつも言われていたし、静かにしていると「いい子だ」と褒められていたからだ。「ほんとこの子は良い子だね。だけどここまで来たら泣いてもいいよ」というようなことを裂いた手ぬぐいで手当をして貰いながらおばあちゃんの声で聞いたような気がする。
 歌志内では良くしてもらった。いもが入っていたり、南瓜が入っていたりしたが米の飯が食えた。脚光を浴びて炭坑町は景気も良かった。でも母は心細かったろう。乙女おばあちゃんの存在がどんなに大きかったかは想像に難くない。