「桔梗庵年越し蕎麦」

  桔梗庵年越し蕎麦
 年越し蕎麦をふるまうのが私の大晦日の恒例になってから十年以上経つ。年末に一緒に年越しする人数を把握し、桔梗庵に予約して大晦日の朝受け取りに行く。
 紅白歌合戦が後半になると、大鍋と大ざると大きなボウルを用意して妻の実家の作業場に立つ。コンクリートの床に義母が火口が二重になった強力なコンロが用意してくれている。鍋に水を張り湯を湧かす。ガスコンロで湯煎用の湯を湧かし、家の中の台所で、付いてきた出汁をかけ汁用に薄め、温めてもらう。鍋が大きい。火力が強い。水が冷たい。条件が揃うと逆に少し緊張する。まるで釜前の蕎麦職人になったように錯覚してしまう。沸騰して来た鍋に五人前の蕎麦をほぐし入れる。いくら鍋が大きいと言っても、家庭用、蕎麦が湯の中で踊ると言う感じにはならない。箸でゆっくり蕎麦一本一本を湯に触れさせるようにして沸騰を待つ。桔梗庵のおやじは、「一分半」と言っていたがやはり口で確かめながら蕎麦に透明感が出て来た時にざるで引き揚げる。汲んでおいた水に入れ粗熱をとって蛇口からの冷たい水でザブザブ洗う。5つの丼に分け盛って湯煎をし、渡す。中では、前半5人が食べている間に私は後半5人分の蕎麦にとりかかる。中では、姪や娘がねぎを刻んだり、海苔を用意したり、食うだけだった子どもではなくなっている。同じことをくり返しているとそんな成長を感じることができる。自分用の最後の一杯を湯煎して、かけ汁をかけて終盤の歌合戦を見ながら蕎麦を食う。小丼一杯分の蕎麦はもり蕎麦にして食う。役得である。
 冷たい水できちっとシまっているので舌触りや喉越しは申し分がない。鍋に比して蕎麦が多く茹で上がる前に香りがとんでしまうのだろう、香りが薄い。特に、桔梗庵の蕎麦で一番好きなかけ蕎麦の喉を突く香りが感じられないのは残念だが、みんな私の年越し蕎麦には満足してくれているようだ。いつも食べさせてもらっている身が、食べてもらう身になる。これも、蕎麦を楽しむ一つのようだ。 
 娘達が、食べ終わった食器を手早く洗ってしまうのを見ながら年を越す。腰が痛いので作業場の後始末は明日と言うことにする。明日でなく新年である。