新蕎麦の色で…(1)

 今日、自分的年中行事の一つ「新蕎麦を楽しむ」を桔梗庵で催した。催したと言っても独りである。いつものように開店と同時に入って、大将と蕎麦談義でもしながら催そうかと思っていたが、出掛けに電話がなり、桔梗庵に着いたころはもう昼の客で賑わっていた。大将は蕎麦談義どころではない。結局完全独りで催すことになった。しかし、私ぐらい蕎麦屋になれてしまうと退屈はしない。客を見たり、調理場を眺めたり退屈しのぎの駄洒落ならぬ、蕎麦屋の「駄哲学」が始まるからだ。
 新蕎麦の「新」らしさの一つは色である。今日、出された蕎麦もいつもと少し違う。いつもの薄茶色とか、白茶色がすこーし緑がかっている程度なのだが、問われると「緑」としか言いようがない色になっている。私の場合、この色も味になり美味しい。そして、この「新蕎麦は緑」で駄哲学が始まった。
 昔、自分が蕎麦好きだなと自覚し始めたころ、友達との会話の中で蕎麦の色が話題になったことがる。「きれいな緑色していてあそこの蕎麦が旨いよ」というやつもいたし、「真っ黒で腰が強くて…。これが蕎麦だって親父に連れて行かれたことがある。」と言うやつもいた。「本当の蕎麦は真っ白なんだで」と言ううやつまで出てきてそば経験の乏しかった私は、「そういう蕎麦もあるんだ」と深く頷きながら聞いていた。その乏しい経験の中で私が食べていた薄茶色の蕎麦は、一般大衆向けの普及品で本物とは比較にならないもののような気がしていた。一番説得力があったのは「緑」である。印刷物に見られるそばは、写真にしてもイラストにしてもほとんど緑に着色されていたからだ。そしてこのころの私は、「緑色の本物の蕎麦を食う」ことを憧れとしたこともあったのである。
 「蕎麦は緑」とピーマンや胡瓜の緑に近いニュアンスで言う人は多い。新蕎麦のときでさえ難しく、この時期以外は「緑」に当てはまらない蕎麦の方が圧倒的に多いのにである。私は印刷媒体によって蕎麦を表現するときにラーメンやうどんと違いを際立たせるために蕎麦を「緑」にしてきたせいとは思うが、コンピューターで微妙な色まで発色される現在、まだ明確に緑と言う人が結構いるのである。
 私はそのルーツを釧路だと思っている。昨年道央から道東へ蕎麦の食べ歩きをしたときにそれがわかった。釧路を代表する蕎麦屋の老舗、総本家「東屋」で出された蕎麦が誰が見ても「緑」と明言できる色だったのである。のれんわけされた店、分店支店もすべてこの色とのことである。その中で、手打ち蕎麦をやっている「東屋」もあるというのでそこへも行ってみた。早速もり蕎麦を頼んだら総本家「東屋」と同じ蕎麦が出された。先客の女性も緑色のもり蕎麦を食べている。聞いてみた。「これ手打ちそば?」と言う問いに、「手打ち蕎麦ではありません」という答え。あわてて手打ちを追加する羽目になった。手打ちと断らなければ蕎麦は緑色のものが出される。釧路東屋系の蕎麦屋では、「蕎麦は緑」が普通なのである。そしてその東屋を冠した分店支店の蕎麦屋はあちこちに見られる。調べると、東屋の鮮やかな緑色は練りこんだクロレラによるという。釧路で生まれ育った人には、「蕎麦は緑」なのである。「クロレラ入り」は省かれてしまう。