「はし膳」(1)

  青春早期(ガキの頃)
 久しぶりにはし膳の暖簾をくぐった。いつものように入ったすぐから奥へ伸びるカウンターのその奥のほうに席を取る。少し目線を感じる。目線を感じられるほど私はこの店に来ていたし、目線を向けられるほど久しぶりと言うことかもしれない。
 私は、本町「えびす庵」で初めて蕎麦屋の蕎麦を食った。そして「桔梗庵」で初めて蕎麦の味に目覚めた。そしてその間をつないでいたのがこの「はし膳」だ。
 高校時代に遡る。新聞局に入って部活三昧の毎日がスタートした高校一年生のとき、私と柏倉と久保田の三人が前号の広告料の徴収と次号の広告取りを先輩に指示された。なかばおおっぴらに高校生が町をほっつき歩けるのである。当時の高校生から考えるとそれはとても楽しいことだった。高校生としても幼かった私たち三人は何の抵抗もなしに、まるで仔犬がじゃれあうように函館の町に繰り出した。電車賃は広告料から出してもらえた。高校新聞の意味も、どうあるべきかも知らない三人は、手当たりしだい店屋を訪ねては広告掲載を依頼して歩いた。断られることが嫌いな私はいつも後ろからついて歩いていたが、柏倉と言う男はまるで頓着無く下手な鉄砲も…の調子で断られても断られてもあきらめずに軒並み店の中に入って行ける男だった。結局前号同様付き合ってくれる店があったり、子どもや孫が学校に通っていると言うことで掲載を承諾してもらったりしてノルマが達成できた。気がついたら駅前まで歩いていた。賑やかさを見せ始めた繁華街から美味しそうな匂いが漂いだし、ガラスケースにも惣菜などが並んだ。空腹と五感を攻められ「電車賃でなんか食うべ」と言うことになった。帰りも歩くことにして…。
 そのとき往復の電車代で食べることができ、入ることに抵抗が無かったのが蕎麦であり蕎麦屋だったのだろう。もちろん今の高校生が愛するファーストフードの類は全く無かった時代だ。なぜ「はし膳」に入ったのかは覚えていない。そのころ「はし膳」の近くに大正堂と言う本屋があり、そこの広告を取った後だったのかもしれない。
 そのときのはし膳は今の店構えではなかった。詳しく覚えていないが、入った正面奥の壁に調理場とつなぐくりぬかれた窓があり、そこから客に供される蕎麦や丼が次から次へと吐き出されるように出てきていた。私たちが頼めるのは掛け蕎麦でしかない。そしてそれは頼むとほとんど待つまもなく我々の前に運ばれてきた。速いと言うことはとてもいいことだった。お金のことも、この時間に蕎麦屋に入っていることも少し後ろめたい気持ちがあって早く店を出たかったのだろう。味も温かさも覚えていない。