閉店(二)

 お茶とおしぼりを持ってきてくれた店主に、白い厚紙をふたつおりにして筆ペンか何かで手書きされた蕎麦と酒だけの手帖大のメニューを形ばかりながめながら「今日はお酒をもらおうかな」というと「お酒は何にしましょう」と問い返された。メニューには私の知っている酒もあったがせっかくだし、この際どっぷりと「蕎麦前」の雰囲気を楽しもうと高い酒にしようと思った。しかし、高い酒は美味いだろうくらいしか酒は知らない。「その他」という小さく書かれた文字を頼りに「おすすめの酒で」と店主に任せた。「はい」と返事をした店主は厨房に入るとすぐ出て来て、「お客さんお席移りましょう」といって、何のことかわからないでいる私に構わず、店主はおしぼりとお茶を壁を正面に見るカウンターのセンターに当たる席のお盆に移し無言の手で私を促した。他に客は誰もいなかったから私は主客になった。
 厨房から音が漏れ来るだけの静かな中でさほど待つ間もなく、注ぎ口の付いたガラスの酒器に腰が丸味をおびたガラスの猪口。お酒の銘柄と特徴を短い言葉で教えてくれた。「軽いお酒です。京都です」「こんなのが合うんじゃないかと…」と出されたのは草色の四角い小皿に南瓜のサラダ。南瓜に歯ごたえが残りあっさりした口当たりだ。サラダで飲む酒もおいしい。「何度か来て貰ってますよね」「札幌でないものでたまにしかこれなくて…、函館なんです。」「ありがとうございます」こんな会話の後は手酌が進む。店主は厨房だ。蕎麦前で酔っ払うほど飲むのはどうかと思ったが、あまりの居心地よさにもう一つ頼んだ。すると水が入った大きなワイングラスを持ってきて「酒を替えましょう」と言う。口を直せと言うのだろう。冷たい水を口に含む。箸を残しお盆の上がすっかり替えられる。枯草色の小ぶりの猪口と酒が入った同色の片口が置かれた。暖簾やお盆と同系の色だ。少し辛口の灘の酒ということだった。車で寝泊まりしていたので安い焼酎続きの喉にはことのほか美味い酒だ。手酌で二つ目を注いでいると黒っぽい釉薬の小鉢に白いつぶの酒蒸しが出された。、辛口で重くなった舌にコクのある磯の香りがからまる感じでおいしい。酒がほしくなる。そして酒を飲めばこの肴の味がほしくなるのである。次は何が出てくるだろうかと言うような気持ちから二つ目の酒が残っている内に三つ目の酒を頼んでしまう。片口の底に残っている酒を飲み干し、水のグラスに手を伸ばすと待っていたように盆の上の猪口を盃型の猪口に替え、酒器を取っ手の付いた小さな鉄瓶の酒器に替えて「これは広島の酒です。辛口です。飲んでみてください。」と三つ目の酒をセットしてくれた。口ぶりから自分が好きな酒らしい。肴は灰白色の小皿に光り物が切りそろえられて出された。「すだち〆の鰯です…」酒の口に冷たい魚の脂が絶妙な加減の酢味で広がる。
 「いつもはコンサドーレのドーム開幕戦と最終戦の応援で来たときに寄らせて貰ってるんです。」「そうですか。でも今日は?」「今日は道東へ車で寝泊まりしながらの一人旅の帰りです。」店主は独り言のように酒をすすめ、私の話もまた独り言のように途切れがちの会話がぶつりぶつりと酒を挟んで交わされる。「本当はまっすぐ函館まで走るつもりだったけれど、疲れたから札幌で泊まることにしたんですよ。そうしたらせっかくだから草庵で蕎麦前を…と思いついて」「ありがとうございます。」と小さく頭を下げると、こちらが少し気にしていたことに気づいたのか、聞きもしないのに「この時間客が来ることはないんです。」とまたぼつりと言った。