閉店(三) 

 あらためて左右のカウンターを見た。今まで来ていた昼の時間の草庵と同じ場所なのに雰囲気が違う。酔いと灯りのせいかもしれない。スポット照明がカウンターだけを照らす。まだ明るさが残る窓越しの通りはやがて沈もうとしていた。
 「蕎麦にしてください」「何にします」「ぶっかけを下さい」真っ白な少し変形のどんぶりで出されたぶっかけは蕎麦の風味とおろしの爽やかさが酔った口においしくおいしくなじんでいった。私が食べたかったのはこんな蕎麦だったのかと思いながら箸を置いた。
 店を出たらまだ7時前だった。また来ようと思いながらそのまま安ホテルに帰った。
おととしのことである。
 
 閉店の店を二度ほど振り返ったあと氷雨の中傘をさして次の地下鉄の駅まで歩きながら、あの草庵と店主を独り占めにして酒と蕎麦を楽しんだ夕刻がもう二度と戻らない時間であることに気付いた。店主のこだわりや理想を具現した「蕎麦と酒」のシュチエーションにつきあわされたと言えばそうかも知れないが、蕎麦というものが蕎麦を供する側と蕎麦を食べる側とで作り出すものとすれば、あのことは客冥利に尽きることなのだ。そう思うと草庵がなくなったことがとても大きな物を失ったことにもなることを痛切に感じさせられた。そしてもう二度と体験できないからこそ、あのぶっかけ蕎麦は私にとっての究極の蕎麦だったような気さえした。
 草庵には蕎麦を食べるだけでなくしっかり酒を飲むカウンターがあった。居酒屋とも違う、蕎麦職人が酒と蕎麦を楽しむ客ひとりひとりと向き合うためのカウンターがあった。たまたま私がその雰囲気にとっぷり浸かることができた客になれた一刻があった。昼に来ていたときは単に手打ち蕎麦のおいしい蕎麦屋だったけど、時間を気にせずに来たあの夕刻の草庵はその雰囲気の流れに身を任せた浮揚感のある時間だった。人によってはもっとしゃべってくれる店主の方がいいのかも知れないがぼつりぼつりとした無口な感じも、ぼんやりすることが好きな私に合っていた。
 その草庵がなくなっていた。小洒落たパン屋になっていた。
(終)