干鱈

 季語で言うと干鱈だが、椴法華あたりの浜では「ぼんだら」になる。もっと厳密に言えば「ん」は「う」との曖昧音になる。妻の母親が私のために干したり、知り合いから手に入れてくれたりして、亡くなる前はぞんぶんに食べさせてもらっていた。初めの頃は自分で石の上でハンマーで叩いて毟って食べていたが、義母は私が好きだと分かると段ボールに3〜40本程呉れるようになった。それも、ローラーでつぶしたものを手に入れるようになり、私は5〜6本づつ食べる分毟ればいいだけになった。醤油と酒とマヨネーズに和えて一晩おくと絶好の焼酎の肴になる。仲間内の泊まりがけの集まりの時には宴会が終わってからの夜の部のつまみに持っていったこともある。
 父も手に入ったときには家の裏の専用の石で叩いていたが、母はもう少し生干しのものだろうか、戻して甘辛く煮たものを食べさせてくれた。母の料理を食べなくなってその後しばらく食べることも無く忘れていたが、東北に旅行したとき、横手の旅館の朝食に棒鱈の煮付けが一皿付いた。薄っぺらな塩鮭一切れでないことも嬉しかったが、口の中の身のほぐれ、味付け、その素朴なたたずまいが嬉しくて褒めたら、宿の人が、「東北の山の暮らしでは新鮮な魚が無かったから、こういう物を大事にに炊くんだ」というようなことを言った。そういえば母も山形の出身だったことを思い出した記憶がある。
 先日来「干鱈」の季語が気になっていたが、類想が先立ち句にならないでいた。
   干鱈打つ海の記憶をほぐすべく   未曉
   海遠し群れまた遙か干鱈打つ    未曉