南瓜ご飯(2)

 私の記憶は、函館(私は小樽だと思っていたが、文献を調べると樺太からの引き揚げ船はほとんどが函館入港で小樽入港は無かった)に上陸し、歌志内への汽車に乗るため線路の上を歩いていて転び、ガラスの破片で親指の付け根の所から噴き出した血の色から始まる。私の手を引いていた祖母が手ぬぐいか何かを裂きながら「泣いていいよ」と言ったことをうっすら覚えている。
 そして、その次の記憶が南瓜ご飯なのである。
 叔母さんが「南瓜ご飯だよう」と言いながら釜の蓋を持ち上げる。兄弟従兄弟たちの中でも最も幼かった私は目を丸くして、その黄金色の釜の中を覗き込む。叔母さんはもったいぶって釜の蓋を取ったのだろうが、兄や従兄弟たちは日常的に馴らされていた我慢で分別くさく遠くで見ていたに違いない。叔母さんの誘惑に幼い私だけが乗っかたのである。
 そのころ歌志内は戦後復興の源としてもてはやされた石炭の町、景気も良かったろうし、叔父の家も叔母の家も商店だったから少し余裕もあったようだ。だからこの記憶も「食べるものが乏しかったから毎日のご飯を南瓜で増やして食べさせて貰っていたのだ」くらいに思っていた。しかし、いくら景気が良かった町とは言え、日本中に食料がなかった時代だった。育ち盛りの従兄弟たちも私たち兄弟も毎日米の飯を食べられるはずはないのである。南瓜混じりとはいえ普段食べられなかったご飯が食べられるからこそ、叔母さんはわざわざ子どもたちに見せるようなことをしたのではないか。だからこそ、このころから食欲のかたまりであっただろう私の記憶に強く焼き付いたのではないかと考える方が理にかなっている。(続く)