クライストチャーチ・地震(2)

   花の芽の地震に悔しき母国春   未曉
 アメリカ娘をホームステイさせたことがある。本名はキャサリンとかだが、ケイティと呼んでいた。明るく健やかなイメージ通りのアメリカ娘だった。週末は明け方になってやっと帰ってくるほど遊ぶが、普通の夜は私達が英語の勉強をしているのではないかと勘違いするほど熱心に日本語の勉強を手伝わされた。
 そんな普通の夜に北海道南西沖地震、いわゆる奥尻地震がおきた。絶叫がしたかと思うと二階から大柄なケイティがドタドタと駆け下りてきた。地震より迫力があった。本震がひとまず落ち着いてケイティの興奮が収まって聞くと、彼女は故郷ニューヨーク州地震の経験がないという。初体験にしては強烈だったのかもしれない。
 余震に怯えながらもテレビ画面の奥尻の惨状を目の当たりにしているとこんどは突然電話がなった。奥尻檜山に繋がる人はいないし誰だろうと受話器をとると、耳に溢れんばかりの聞き慣れない声が響いた。それが英語だとわかるまでに数秒、何も返事が出来ずにいる自分に気づくまでに数秒、しどろもどろチンプンカンプンのあいづちで数秒、ケイティさんの親だとわかるまでに数秒、とにかくと思ってケイティさんを呼んでやっと嵐が過ぎた。通話の邪魔にならないようにボリュームを落とすこの画面を彼女の両親も見ているのだろうと言うことに気づいた。そして、愛する娘を遠い異国の地に遊学させている親の気持ちが切ないほど理解できたのである。
 それから数年後、次女が高校卒業後アメリカで勉強したいと言い出した。何人かの留学生のホームステイを引き受けたことも娘たちの刺激になればと思ってのことだったし、日本の大学に大きな意味も感じていなかった。高校最後の面談の時に担任の「(次女が)選んだ道は日本の大学の卒業の資格は得られませんよ」という説明には「構いません」と即答した。
 そうしてアメリカに行って数年した時、9.11がおこった。娘がいたのはネヴァダだったので心配もせずにテレビ画面を視ていたが「外国人に対する態度に変化が見られ、緊張が生まれつつある」という報道に接し電話をかけてしまった。「日本人とか、東洋の人たちには今までと変わらず友好的だけれど、中東やアラブ系の人たちは外出を控えているみたい…」という返事だった。
 私もその立場になればケイティさんの親と変わらない…、と言うのが二つ目である。
 今日「生存を期待しての救助活動を終わり、遺体捜索活動に切り替える」という発表があった。私ごときの経験では、遺体にも逢えず一時帰国を余儀なくされた親の悲痛は理解の及ぶべくもない。