「季語閑語」ひとまず…(1)
 このブログに「季語閑語」というカテゴリーが生まれて五年あまり季語閑語の駄句ぶりは変わらないが、私の俳句に対する意識の変容もありひとまずの句切りとして、ここで一回振り返っておこうと思う。できれば新年から少し変わった「季語閑語」を目指したい気もしている。 
 蕎麦の食べ歩きと、山歩きを中心として始めたブログだったが、すぐに書く内容が無くなり、毎日の更新が難しくなった。「毎日書くことで頭の老化を防ぐ」という本来の目的をも脅かされそうになってしまった。
 わたしのブログはブログを続けるためにあるから、長期旅行などが無いかぎり毎日書くと言う体裁を採っている。、書けるときに書けなかった日の分も書いてでもその体裁を整えることにしている。そういうプレッシャーを課さなければ私はすぐあきらめてしまうからである。そこで体裁を整えるための穴埋め、場つなぎとして当時初心の俳句を利用しこの「季語閑語」というカテゴリーを設けた。「閑語」にはそんな意が込められている。
 しかし、五七五17音とはいえ、初心者の私に、息をするように自然に五七五が俳句の態をなして生まれるはずはない。朝、パソコンの前に座ってから苦吟する日が続いたが、その苦吟が気に入った句が出来たときの喜びを教えてくれ、句誌を読んだり投句したり句作りの態度に積極性をもたらせてくれたのである。人間たいした意味の無いようなことでもなんでもやってみることだと思う。少し頑張ってやり続ければ何かを自分にもたらしてくれる。最初考えてみもしなかったことが副産物として生まれ、それが新たな目的になることだってある。最初から生き甲斐を得るような計画や計算は出来っこないし意味もない。私の場合、その積極性は新に二つのプレッシャーを我が身にかけたのである。
 一つは一日必ず二句作り、ブログの柱とすること。もう一つは句会、投句の場を求めて他の人の刺激を受けることである。