車で奥のほそ道・多賀城址(後)


 写真は多賀城址南門から撮った。中央最奥小高い丘の上が先刻佇んだ政庁跡。ちなみに中央に写っている車が愛車。手前右の小堂の中に壺の碑がある。
 真北に政庁、真南に南門、間に緩やかに登る階段と斜面の大道が一直線に繋いでいる。北の脅威に供えて律令体制による中央集権を急ぐ平城朝廷がその威光を見せようとしたのだろう。南北に貫く大道の北端に築地塀で囲まれた政庁の建物群。その周囲に役人兵士の住居群が想像できる。大きい。 「壺の碑」は多賀城の京や県境からの距離、位置、作られた由来などが碑麺に刻まれている。当時に作られた者か、時を経てから作られたものかの議論もあったそうだが、今は、多賀城が造られた時に建てられた石碑ということで確定しているらしい。
 《昔より詠み置ける歌枕、多く語り伝ふと云へども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋れて土にかくれ、木は老ひて若木にかはれば、時移り代変じてその跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、覇旅の労を忘れて泪も落つるばかりなり。》と芭蕉は記している。
 この碑を歌に詠んだ歌人たちも、762年とそれぞれ訪れた年の隔たりを実施にその時間を埋める碑を見て感慨を得たのであろう。芭蕉の時も多賀城全体が大切にされていたわけではないだろうから碑だけが周りに埋もれるようにあったに違いない。だからこそ当時の人の心に生まれた言葉が当時の人の手によって刻まれ、千年を経て目の当たりにできた思いは、他の歌枕の多くが時間の重みに無惨な変わり様を見せていただけに強いものがあったのだろう。
    
 北端の小高い政庁跡から多賀城址の全体を見たとき、図示された説明板をたよりに自分の頭は1400年目の私の多賀城を想像できた。後から作ったような建造物がほとんど無かったからである。今実際に覆堂の格子越しに壺の碑を見ると、やはり、訴えかけてくるものは大きい。
 このままが良いというのは私の勝っ手で観光資源として有望ならば整備されていくのだろう。
《その跡たしかならぬ事》…それも時の流れなのかもしれない。《月日は百代の過客にして》
  裏切られなかった歌枕の地に立った芭蕉を思い
   多賀城址礎石涼しき草鞋かな   未曉