車で奥のほそ道・多賀城址(前)

 古代陸奥を旅した人たちも名称松島あたりを限界としたのだろう、仙台を越したあたりに歌枕後は覆い。45号線を東へ。右へ曲がれば、野田の玉川、沖の石、末の松山、壺の碑などがあるが、芭蕉の時に既に歌枕の風情を失ってしまっているものが多いと言うことで、私は左折、多賀城址の壺の碑を訪ねた。初めは市役所を目指したが、途中「多賀城跡」の矢印を見つけそれにしたがって車を走らせた。月曜日の朝、この辺も仙台市の通勤圏内なのだろう対向車が多い。
 農家が点在するだけで耕地が広がる中、狭い農道がT字路になって信号機がある。赤信号で止まっているとけっこう交通量が多い。右に曲がるとすぐ「壺の碑」の表示。狭い農道なので駐車スペースが無い。あわてて農家へのアプローチと思われるわき道へはいる。そこも狭かったが、斜面を登るように突きすすむと左折で農家の庭先、右折すると5台くらい停められそうな場所があった。何の表示もなかったがそこに置かせて貰った。
 車から降りて気が付いた。そこは遺跡のど真ん中らしい。斜面を登るように広い道幅の遺構があり、見下ろすと壺の碑のあるあたりまでその遺構が下っている。
まず登った・石で土止めされた幅広の階で緩やかに登っていく。石が当時の者かどうかは分からない。復元中かもしれない。50mほど登ると所々に礎石の埋まる広場に立った。説明板を詠ませて貰う・
 今着いて立っているところは672年多賀城の政庁が建っていたところだった。

       政庁へ登ってくる大道の遺構。南、遠望は仙台湾。左へ走っている白
       い車の向こうに「壺の碑」がある。
 曇っていて寒かったが、作られたのが672年、芭蕉が来たのが1689年。歴史の流れを実感できたような気がしてしばらく寒い風に吹かれていた。