車で奥のほそ道・白河の関

五世紀のころにはあった関所跡で、蝦夷の南下を防ぐためのものだった。しかし蝦夷討伐後はその役目を終えて何時廃止されたかはわかっていない。芭蕉がここを訪れたころ既に関所は無かったが「みちのく」へ旅した人たちにはやはり別な大きな意味を持った関所だったようである。
 《心もとなき日かず重るままに白河の関にかかりて旅心定まりぬ。「いかで都へ」と便求めしも断なり》と書いている。「いよいよ来たな、都の家族などへ手紙を書く人がいるというのも分かる、うん分かる」という覚悟だろう。また《古人冠を正し衣装を改めし事など…》と多くの旅人もここを特別なポイントとして通過していることに感慨を抱き、曽良の句を紹介している。
  卯の花をかざしに関の晴着かな    曽良
 また翌日、白河の俳人に迎えられたとき《白河の関いかに越へつるや》と問われ、「疲れてその時は思い浮かばなかったが」と前置きして、
  風流の初めや奥の田植うた   芭蕉
と句を披露している。地元の人にも「白河の関」を越えた感慨を旅人に問う者が多かったようだ。  
 古代の関所が何処にあったか定かではなかったらしい。白河藩松平定信が調べさせて特定した現在地が後に堀、土塁などの遺構も発掘されて確かめられたようだ。

 車で30分まえに訪れた遊行柳は関東、茨城県、知らぬ間に着いた白河の関は東北、福島県になっていた。つい、300年前まで歩いて旅した者にとっては此処からが、「陸奥」「道ノ奥」でありその分都から遠ざかったことを実感させられる心の関だったのである。未開の外国に入る心境だったのだろうか。
 蛇足だが、そういえば私の小さなころ「青森以南は内地、函館は北海道の玄関、それより北は奥地」と呼んでいた。「函館の関」も人々の心にはあったのだ。