ねぶた祭り(2)

 居酒屋「横丁」もねぶた祭り一色だった。「一年も祭りを欠かしたことが無い」風の熟年おじさんが祭りの衣装に身を固め、焼き鳥を焼いている女将さんと方言全開でこのごろのねぶたについて語り合っている。祭りが済めばどこかの会社の役員とも思わせてしまう恰幅だ。私と同じカウンターに座った常連客らしい二人が、カウンターの中の園児くらいの女の子に話しかけている。「あれ、今年は祭りではねないの」「お兄ちゃんは出るよ」おばさんらしい店の人が「お母さんがこれだから」と自分の腹を太鼓腹に見せるしぐさで補強した。「ンダバ来年出るんだか」「ウン」テレビでは私のためか、ローカル局の今日運行予定のねぶたが紹介されている。小上がりで飲んでいる客もねぶた目当ての客だ。
 店を出て、車が規制された道路を私の席へ急いだ。道端にシートを敷いて場所を確保した人。そのシートで飲み始めたグループ。ここらは函館の「みなと祭り」も同じだ。肩をぶつけ押されながら祭りの雑踏の中を歩き、自分のパイプ椅子に辿り着いた。目の前には大型のねぶたが一台すでに待機している。立ち上がって駅の方を見通すと大小のねぶたが遠近法のビル街の中に重なり連なっている。ねぶた運行の花火が上がり歓声が上がりリーダーの笛の合図でねぶたが立ち上がった。先導、ねぶた、跳人、囃子が次々と目の前を練って行く。ラッセラーラッセラーと掛け声がかかる。その掛け声で跳ねる人…があまりいないのである。まだ始まったばかりだからかと思ったが、どのねぶたも跳人の乱舞は見られなかった。唯一山田高校の一団だけが先生の号令で乱舞らしく跳ねていた。太鼓を打つ人、笛の人、鉦を打ち鳴らす人たちには伝統を感じさせられた。たくさんいるし鉦など小学生からおばさんまでいろんな人がとても上手にリズムを刻んでいた。中には自分流のパフォーマンスをつけて観客の拍手を浴びる人もいる。普段は普通の小学生やおばさんが一年に一回の祭りの夜のために練習したのだろう。たぶん練習させられたのかもしれない。イカ踊りに無い「伝わっている」という伝統を感じさせられた。みなと祭りのイカ踊りは小学校や幼稚園が父母会ごと参加するとか、企業や団体が参加するとかが多く、中高生が少ない。私がイカ踊りに持つ少しの気恥ずかしさもその辺りにあるような気がする。
 奈良時代からの祭りを持つ青森の人は幸せだと思う。祭り前には「ねぶた正装」の中高生をたくさん見かけた。さすが伝統のお祭りだなーと感心した。中学生や高校生を巻き込める祭りはすばらしい。棟方志功が愛するゆえんであろう。
 反面、物足りなさも残った。最後まで跳人の忘我の乱舞は無かった。もしかしたら連夜の疲れがあったのかもしれない。日曜日辺りのメーンエベントのために英気を養っているのかもしれない。跳人の隊列の両側はロープがあり、ガードされている。飛び入りで跳ねるなどできない。パンフレットには「正装している人は、自由に参加し、跳ねてください」とあった。正装していないと踊る阿呆にもなれない。
 圧倒的なねぶたの迫力に興奮できたし、ねぶたにかける青森人の底力や地域性も味わうことができた。しかし観光重視、集客重視、イベント化が見せる方と観る方に分かれるお祭りにしているのではという印象もぬぐえない。踊る阿呆に観る阿呆を同じ阿呆にするのがお祭りだと思う。憧れのねぶた祭りは、函館のイカ踊りに眼に見えないほどかもしれないが近づいているような気もしてしまった。小さなねぶたでの町内会単位くらいのお祭りもあるらしい。それはどんなものなのだろう。