久蔵(一)

 福島町やせたな町のそば祭りで新蕎麦を食べたが、落ち着かない中、発泡スチロールの器ではやはり食べた気がしないでいた。桔梗庵は無くなったし、志ら川は暖簾を下ろしたままだ。自分好みだった店が無くなるとこういうときに困る。二、三日思いあぐねていたら行こうと思っていて行ったことの無い店があることに気がついた。函館市南茅部地区の「久蔵」である。天気もいいしもしかしたら川汲の紅葉も始まっているかも知れない。
川汲の紅葉は気配も無いような中のドライブだったが、カーナビは「二本柳旅館」へと案内してくれた。ガラス戸の二本柳旅館という古色の金文字を隠すように久蔵と染め抜かれた大きな幕が玄関先にかかっている。函館市街から40分、過疎進行の漁村で旅館をやりながらの手打ちそば屋はそのモチベーションを継続するのもたいへんだろうし経営も楽ではないだろうとは思っていたが、逆を言えばそれだけにおいしさも期待できる。
入ると上がり框も柱も廊下も黒光りしている。曆史的な意味もありそうな古い建物である。右側に帳場らしき部屋があるが人はいない。全くそば屋では無い。旅館である。奥に向かって二度ばかり声を入れると「いらっしゃい」と応対してくれた。帳場の一つ奥の部屋の板戸を開け、案内されると昔は居間にでも使っていたのだろうか座卓が六つばかり置かれた畳の部屋があり、ようやくそば屋になる。五名ほどの先客が一つの卓を囲んでそばを待っていた。私は表で開店時間を待っていて入ってきたのに、すでに入って注文も通しているところをみれば、初めてでは無いのかもしれない。
 食べるのは盛りそばに決まっているが品書きを見る。650円、好きな値段だ。やがて先客に蕎麦が運ばれてきた。ビールを飲んでいた男性には盛りそば。他の女性たちは天丼などとのセットになったそばのようだ。そば好きの男の人に連れられてきたご婦人たちという感じだ。
 もり蕎麦がはこばれてきた。