蕎麦の旅(3)

 あたりまえのことだが蕎麦は結局「好み」なのである。自ずと足が向く店と向かない店が出てくるだけの話なのだ。ネズミのお婿さん探しの話ではないが、本当の「美味しさ」は自分の口の中にしかないのである。
 今回松本の「投汁そば」を食べながら、もしかしたら本来の投汁蕎麦は田舎蕎麦なのかもしれないとおもった。信州の田舎、囲炉裏を囲むあったかいもてなしの蕎麦はその家のかあさんが打った田舎蕎麦の方が本当だろうと思った。その状況でいただいたら田舎蕎麦も美味しく食べられるかもしれない。空腹の度合い、一緒に食べる人、状況や雰囲気など様々な要素が絡み合っての蕎麦の美味しさであり、その美味しさが蕎麦の「されど」なのだろう。もしかしたら「されど蕎麦」は供する方の、そしたいただく方の大いなる自己満足なのかもしれない。
 兄が癌になった。幸い手術で完治する段階で予後も明るい。しかし食べ物は一変した。肉は食べられなくなっても蕎麦だけは…などと言っていられないらしい。啜り上げて飲み込むような蕎麦は食べたくても食べられないのである。
 これからは「蕎麦の旅」などと大上段に構えず、食べることのできるときに蕎麦の美味しさを食べさせてもらえばそれで十分だと思ったのである。