蕎麦の旅(1)

先日の東京から金沢への旅で食べることができた「投汁蕎麦」と「深大寺蕎麦」で私の蕎麦の旅は一区切りついたような気がしている。 
 蕎麦の打ち方、製法の違い、蕎麦粉の違い、蕎麦粉の割合の違い、つなぎの違い、食べ方の違い、調理法の違い、メニューの違い、店構えや営業コンセプトの違い、果ては立地の違いまで様々な蕎麦を食べ歩いた10余年だった。
東京は行く度に雑誌やインターネットで調べた評判の店を食べる一方、老舗でも食べさせてもらった。二度ほど東北、北陸、中部まで車に寝泊まりしながら蕎麦だけ食べ歩いた旅もした。もちろん北海道も蕎麦の旅をしたし、札幌は蕎麦屋をランドマークに我が町になりつつある。
十二年前、その頃は究極の蕎麦がどこかにあるに違いないと思っていたから退職後の時間を使ってそれを探そうと思った。それが蕎麦の旅の始まりだった。
当時美味しい蕎麦の情報はなかなか伝わってこなかった。インターネットで探しても店主がよほど積極的でもなければ検索対象にもならなかったし地方都市には蕎麦屋が無いかの如くだった。そんなこともあったのか旅に出る前こんな格好つけた動機付けをしている。
『「たかが蕎麦、されど蕎麦」この「たかが…、されど…」に蕎麦ほど当てはまるものは無いように思う。そしてこの「されど…」には蕎麦を供してくれる側の思いとして蕎麦職人の信念や努力が込められているはずだ。ならば、食べる方の「されど…」はないのだろうか。たかが道南ほどの狭いところで美味いのまずいのと言っていて良いのだろうか。それよりほんとうに蕎麦職人の「されど…」を味わえているのだろうか。そんな思いで蕎麦を食う旅に…』と。
しかし究極の蕎麦は無かった。それは、どの蕎麦も美味しく「されど…」を極めようとしていない蕎麦屋さんは無かったという意味でである。違いは私の「好み」だけである。