13/11/1・五稜郭町28番地から

 父や母が元気だった頃昔話をする時、それ以前の我が家の歴史の時代区分を住んでいた家の住所で言いひっくるめていた。「八番地の時だよ」とか「二十八番地の台所でさ」などという言い方である。今日の散策はその「二十八番地」の辺りからである。
 図書館に車を置いて裏に回る。そこの一画が五稜郭町当時の二十八番地(勿論今の住居表示はちがう)である。私がそこ住んで暫くして今の図書館の処に渡島支庁舎が建った。それまでは引き揚げ者住宅が建っていた。家の裏窓からその引き揚げ者住宅の間を通して見えていた五稜郭公園の桜が渡島支庁の為に見られなくなったことを両親が嘆いていたのを思い出す。
 引っ越した年は家の前の道路はじゃがいも畑だった。その年の馬鈴薯の収穫が終わってから道路になったような記憶がある。二十八番地には、農家もあったしそれぞれが菜園のような土地を持っていたので、散らばるように五、六戸の家があった。家が隣接していたのは我が家と吉川豆腐店だけだった。最初は井戸水をポンプでくみ上げていたし、排水、側溝もない住環境だったので渡島支庁舎が近くに建つことは、環境改善の期待も大きかったのである。桜が見えないなどは小さな我が儘でしかなかったのだ。
 見る影もなく変わってしまった。畑はもちろん花を植える隙間さえもなく家がひしめき合うように建ち並んでいる。薯の畝が走っていて、その後は私と隣のエボ君がボールを蹴り合い、雨が降れば泥道と化す土の道路は、きれいに舗装されて人影もない。私の家があったところには、トキシラズの花も葡萄棚も栗の木も取り除かれてアパートになっている。いたたまれない気持ちで二十八番地を亀田川に抜けた。私の家の十年くらい後に引っ越してきたU君の家がU君の名前を表札にして家も建替わって残っていた。少しほっとした。
 私が学生の頃まで木造の橋だった五稜郭橋から亀田川左岸を歩くことにした。50年前この川岸に道路があったかもしれないが家はあったろうか。今は道路も舗装され住宅の玄関が窮屈そうに並んでいる。その先合併前の亀田村との境界辺りまでは、当時の住宅難解消のための市営住宅群があった。ピンクに塗られたブロック作りの平屋四軒長屋が20平方メートルくらいの庭を従えて並んでいた。そこには同学年の遊び友だちが何人かいた。大きな体の佐藤君、プロ野球選手の親戚という小林君、その向こう今の保健所のあたりには野球の上手かった五味沢君の家もあった。亀田川のこの辺りから五稜郭公園にかけてが遊び場だった。釘刺しから始まり、ラムネ、パッチ、公園の濠の石垣を上ったり降りたり、凍った濠の水の上を歩いたり、野球(ごっこ)だったり、名前も付いていないようなさまざまな遊びのフィールドだった。
今は交通量が激しい亀田橋の袂の横断歩道を渡り、亀田川の左岸を北上する。合併前は亀田村だったところだ。ここには大きな原っぱがあり、野球少年になった私たちが遊びからスポーツに目覚めたところだ。といっても満足な道具やメンバーが揃うはずもなく、いつも野球らしきことを遣っていたに過ぎない。そんな中、五味沢君などは中学校で野球部に入ったりして、本格的に遊びから卒業していった所でもある。
 高校入試が終わった日曜日そんなみんながここに集まって野球ごっこを遣ったことが思い出される。その後高校が違い、部活を違えた幼な友だちがこの辺りを遊び場としたそれが最後になった。今はそこを隙間無く家と道が路埋めてしまっている。そして函館市になっている。