1913/10/13・山の手

 白百合高校の裏から山の手の住宅街の中心部へ入っていく。同じような街区に住宅ばかりなので方角がわからなくなる。店など目印になるようなものもないので今目の前にある家にもう一度来いと言われても無理である。休日のせいか人通りもない。歩いていて落ち着かなくなる。何処を歩いているのか分からないせいか歩いていながら浮揚感みたいなものを感じる。ひたすらゆるやかな勾配を登るように道を選ぶ。見ることに飽きて妄想が始まる
 住んでいる人には悪いが、山の手という町名に違和感を覚えてしまう。「山の手」という言葉の響きは下町を対立語として大きな都市に発生した言葉の筈だ。函館だって、函館山の山裾辺りを地域名として言うのなら分かるが、神山、東山、日吉ヶ丘、高丘、旭岡に挟まれているここだけが「山の手」を町名にするのはいかにも「いいふりこき」感が否めない。その発想も品がない。これは「大手町」にも通ずる。大手門もなかった所を「大手町」とはその発想は貧困である。少し賑やかなところを○○銀座と名付けた明治か大正の東京をあやかれば格好が良いという発想でしかない。「旅籠町」「山背泊町」など歴史を感じさせる上品な町名が消し去られたのも同じ貧困な発想の所産なのだろうと思うと違和感どころではない。腹が立つ。私は桔梗町に住んでいる。山の手の人には悪いがこれは良い町名だと思っている。
 そんな自分勝手な妄想をしている間に大きな畑地が眼前に広がった。山の手の山にたどりついたようだ。
 烏帽子も袴腰もいつもと違う山容で見える。住宅街には戻らず左手に資材置き場や作業場を見ながら登る。立派な舗装道路だが回りは田舎風景の中に入っていく。右手にも畑が広がりだした。何処へ続くかちょっと不安になったが、車の往来もあるのでどこかに繋がっているだろうと汗を楽しみながら緩い登り辿った。