南瓜飯が印象に強い。
 樺太から私達一家が引き揚げた戦争直後の炭坑町歌志内は比較的物に恵まれていた…と思っていた。
 ある日、蓋を開けた釜の中に真っ黄色のご飯が炊き上がっているのをのぞき込んでいる自分を覚えている。炭坑町だから喰えたのだと思っていた。しかし今思えば、あれはきっと赤飯が炊けなかった伯母たちが南瓜を賽の目に切って貴重な米と炊きあげたハレのご馳走だったのだと思う。それは、なんのハレだったのだろうか。きっと父がシベリヤ抑留から復員した日だったのだろうと思う。
 私達は商店をやっていた叔父の家にいた。夜、シーツのようなカーテンを開けるとガラスの引き戸の向こうに兵隊服の父が立っていたのは覚えている。そして真っ黄色の南瓜飯は覚えている。
 死と隣り合わせのシベリア抑留を生き延びた父の帰還を南瓜飯で祝った家族兄弟の思いは三歳の餓鬼には解っていなかったのだろう。
 南瓜飯を食べてみたいと思う。
   復員の父に炊き上ぐ南瓜飯   未曉