「季語閑語」ひとまず(2)
 「季語閑語二句」をノルマ化したのが06年の初め頃だと思うから、もう五年になる。調べてみたら年間400から450句作っているから2000句は超えている計算になる。内容を振り返ると、他のカテゴリーで書くことがないときにひねり出すように作った句だから拙いものが圧倒的に多い。自分のうぬぼれで選んでも良いと思うものは50句あるかどうかだし、自他共にと思うものは五本の指も余してしまう。
 ノルマ化のもと無理矢理作られた句は、感動が薄い分季語を言い訳にわからせよう、わかってほしいという読む人を意識したいやらしさがありありしているから読み返すと恥ずかしくなる。吟行などで発見があっても、その現象のおもしろさを伝えようとするから説明になる。せいぜい読んだ人が「私にも同じような経験があるからわかる」というような感想をいただけるのが関の山だ。経験のない人に現象を伝えるには十七音では足りないから伝わらない。俳句が「わかる」か「わからない」かになってしまう。読む人の経験に頼るような句作りでは意味がない。また、わたしがわかるようなことはほとんどの人が知っているからそんな句は読み捨てられてしまうだけだ。
 私が定期的に購読している句誌に添削コーナーがある。その月の添削希望の投句を選者が理由を添えて添削する。その中で、選者が使う言葉に「ただごと」という言葉がある。句にした感動が平板だったり稚拙であったり類想的であったりしたときに使われる。この句誌の選者は、深化された感動、その人らしく純化された感動という「ただごとでない感動」の表現を俳句は目指すべきだと行っているのだと私は解釈している。
  俳句は詩なのである。
 そろそろノルマとしての俳句作りから抜け出していかなければと思っている。