評価が欲しくて投稿している句誌が届く。そこには三ヶ月後くらいの句誌のための兼題が提示される。三か月先だから季節を詠む俳句としては今季体験できていないことを句にしなければならない。
○1・歳時記で兼題の本意を勉強する。○2・兼題を出した選者の解説や例句を味わう。○3・歳時記などに載っている例句を鑑賞する。○4・自分が今までにその時期作句したものを推敲してみる。○5・過去の体験の中からおもいだす…などの方法でなんとか作る。
 ○4のために今まで作ったほぼ全作品を、エクセルにデーターベース化してあるが、先日整理の途中で一番元になる全句を羅列したフォルダの中味を違うものに更新してしまった。幸い、年ごとに分けたフォルダも作っていたので助かったが、自分の句作を初めてからの努力を消し去ったようですごくむなしい気持ちにさせられた。ただ、実際にはこのデーターベースが作句に役立つことは少ない。今よりも下手くそな俳句だし、感動に手垢が付いているような気もするからである
 三か月も先の兼題の為に役立つのは思い出である。思い出はその出来事だけでなくその出来事を結晶となって包んでいる感動があるからである。こちらが年を経ている分、感動が研ぎ澄まされているようにも思うし、客観的に観ることもできる。
 三か月先の句誌の兼題に「障子」が出された。考えてみれば障子は今家にないし、三か月先もない。五稜郭に出来た復元奉行所に見に行こうかとも考えていたが、いつの間にか私の頭は五稜郭町28番地に住んでいた頃の我が家の障子の数を数えていた。それから母の張り替えを手伝ったこと、そう言うことが好きだったこと、出窓に置いた金魚鉢の影が障子に映っていたこと…すこしつんと来る感動と共に思い出は続く。
 パソコンには逆立ちしても出来ないことである。