私的蕎麦の道(3)津山「もくもくランド」

 石巻から北上川を溯り二つの大きな流れが合流するあたりに道の駅「もくもくランド」がある。手打ち蕎麦屋が併設されているというので寄った。
 道の駅の建物の一隅にあるのではなく、独立した蕎麦屋として建っている。名前もあったが覚えていない。入ると中央で客の一団が声高にお喋りしている。頭を手ぬぐいで縛り、前掛けをした元気なおばさんにもり蕎麦を頼む。蕎麦が来る間、耳に入ってくる話を聞くともなしにきくことになる。「いやぁーおいしかった」「蕎麦屋になるとはなぁー」「この道の駅で何かしねぇかって声がかかって、それから勉強したのよ」どうやらこの店の店主の知り合いの一団が店を訪れ店主も一緒におしゃべりしているらしい。話の内容から答えている店主が蕎麦を打っているようだ。しかし、セーターにズボン姿で調理場にいた恰好ではない。とすると、調理場はおばさんたちだけらしい。いままでの経験から悪い先入観がどんどん沸き上がる…。柔らかい、水切りが悪い…。麺はともかく仕上がりの悪い蕎麦が予想される。
 自分が蕎麦打ちを教わった人や店作りの苦労話を友達に聞かせているのを聞いていると蕎麦がきた。案の定、濡れ濡れのそばである。蕎麦ではあるが、水気がじゃまして食感は蕎麦ではない。甘汁は砂糖の甘さが口に残る。最後は水浸しの簀の子に蕎麦の切れ端が浮いて溶けかかっている。心配どおりになってしまった。
 息子がね、この間、「この店は隠れた名店だねと会社の人が言っていたよ」と言っていた。とその店主は友達に教えていた。その間、私に出された蕎麦を一瞥だにしなかった。
 「手打ちそば」という看板に偽りはないが、蕎麦を手打ちさえすれば「手打ちそば」になるわけではないだろう。一時「元祖」という文字がいろんな店の幟に入っていたことがある。そして「元祖」と言う言葉に全く権威が無くなったのと同じように、「手打ち」という言葉が客寄せのためにだけ使われ、その意味を失いつつある。幟や看板だけでは食べられなくなる日も近い。いい加減な手打ち蕎麦屋と一緒にされては困るとばかりに、宣伝をしない蕎麦屋。辺鄙なところに店を構える蕎麦屋。情報は流しても地図を載せない蕎麦屋。常連とサークル的にやっている蕎麦屋…ができてきている。これも、逆の意味で私のたかされ道に合わない。手打ち麺ではなくても美味しい蕎麦を提供してくれる店はたくさんある。
 手打ちという看板を上げる蕎麦打ち人にも、食べる側にも責任のあることだが今回の蕎麦の旅では「手打ち蕎麦」という言葉が薄っぺらくなっていることを強く感じた。そして多くの情報誌が「ちょうちん記事」の羅列でしかなくなっていることも知っておかなくてはならない。