車で奥のほそ道・陸奥国分寺

 名取り側を越えて仙台に入る。《奥のほそ道》には宮城野と書かれている。茫漠たる原野だったのかもしれないが今は大都市仙台である。昔を語るものは車からでは見ることもできない。真っ直ぐ拠点に決めた榴岡公園に向かう。講演付設の公営駐車場があり、停めることができた。
 日曜日、カップルが、親子が、家族連れが暖かな日向の中で緩やかに遊んでいる。私は地図とカメラを持って宮城野歩きを始めた。
 《宮城野の萩茂りあひて秋の景色思ひやらるる。玉田、横野、つつじが岡はあせび咲くころなり。日影ももらぬ松の林に入りてここを木の下といふとぞ。昔もかく露ふかければこそ「みさぶらひみかさ」とは詠みたれ。薬師堂・天神の御社など拝みてその日は暮れぬ。…》と書かれている中の薬師堂を目指してである。私が参考にさせてもらった【芭蕉「奥のほそ道」の旅】の中の鐘楼の写真に惹かれたからである。もしかしたら少しは芭蕉の時やたたずまいを感じられるかなと期待できたからである。その写真説明には、{荒廃していた旧国分寺跡に伊達政宗が1605年から3年の歳月をかけて薬師堂、仁王門とともに造営した}とあった。
 迷ったりしながらも、都心から少し離れたビルと一般住宅が混在している街をぶらぶら歩く。坂が無い。道が広い。今年初めての楽天ホームゲーム開始直前の興奮漂う野球場の広場を通った。そこから道路一本隔てて広い貨車操車場を左に歩いた。このあたりに宮城野と呼ばれるような面影が残っていたのもそんな遠い昔ではないようだ。住宅街の様相が強くなったあたりに陸奥国分寺跡はあった。
 私は、薬師堂の裏側から境内に入っていった。薬師堂の五十メートルほど前方に仁王門。左前方に鐘楼がぽつんぽつんと置かれている。芽吹き前の樹木が多く春の日射しがあふれている。仁王門まで行って改めて正面から入る。仁王像を拝観する。運慶の作という。彫り跡に豪快さを感じさせる。何かの催しか大きな草鞋が立て懸けられていた。くぐって鐘楼と薬師堂を映すべく右にまわると足元に国分寺の回廊礎石が連なっていた。さぁっと宮城野の風を感じた。

芭蕉を案内してくれたのは地元の俳人加右衛門(加之)という人で、四、五日滞在後芭蕉が旅立つ時に紺の染緒を付けた草鞋を餞とした。折りから咲いている菖蒲の花の色である。その風流心にいたく感じ入って
  あやめ草足に結ばん草鞋の緒   芭蕉
 と詠んでいる。芭蕉の奥のほそ道の目的の一つに風流の実のある人に出会うこともあったようだ。黒羽から殺生石に向かうう時馬を借り、その道中馬の口を取る馬子に「短冊を書いて下さい」と頼まれている。
 《やさしき事を望み侍るものかな》と
    野を横に馬牽き向けよほととぎす 芭蕉 
 の句を与えている。
陸奥国分寺址はなぜか何時までもそこに居たい、そん日溜まりの宮城野の一角だった