山本乙女・黒い薬(2)

 この黒いドロドロした物を我が家では「黒い薬」と呼んでいた。腹薬としてである。その頃は胃も腸も肝臓もなにもかも腹だったから「腹薬」である。私の場合、食い過ぎか冷たいものの飲み過ぎかで腹具合が悪いときにお世話になった。一年に一回富山の薬売りが置いていく薬も薬箱の中にあったが、こと腹薬に関してはそのお世話になったことはなかった。
 苦い薬だった。多少辛くても、しょっぱくても、熱くても、固くても、口に余す物が無かった私でさえ「苦い」と口に入れるのをためらうほどの苦さだった。しかし、腹具合の悪いときだから、この苦さはいかにも効きそうで頼りがいがあった。我が家にはこの黒い薬用にオブラートが用意されておりそれに小豆ほどの黒いドロドロを包んで口に入れ、急いで喉を通した。効果がなかった覚えはない。いつの間にか効いていた。それを飲んだ次の食事は制限されたが、戻った食欲に悔しい思いをすることの方が多かったように思う。
 この黒い薬は使われる機会がだんだん少なくなりずっと長い間戸棚の奥にあった。おばちゃんが山に行かなくなり新しい黒い薬を作らなくなってからもしばらくあった。これを飲んだらかえって腹をこわすのではないかと思われるほど固くひからびて瓶の底にはりついていた。私もこれが二日酔いに効かないことが分かって以降その存在を忘れてしまっていた。
 私が就職するとき入院していた母に「あんた黒い薬持ったかい?」と冗談のように言われて思い出した。家に帰って戸棚の奥を見たらいつもの場所のいつもの瓶に薄くこびりつくように黒い薬が残っていた。しかし早く家を出て一人で生活したいと思っていた私は、迷うことなく瓶を元の場所に戻した。黒い薬は持っていかなかった。
 薬効がどの程度の物かわからない。多分に気休め程度だったのかもしれない。私の腹具合などほったらかしておいても治る程度のもだったかもしれない。しかし、子どもの頃の私の心につながっていた腹にはとても効いた。ちょうど、精神主義的おまじない効果と合理主義的医薬品との境界で私の腹具合を守ってくれたのだろうと思う。
 山から採ってきて干して煎じて煮詰めて小瓶に少しの黒い薬になるまでのおばあちゃんの智恵と労力と愛情がこの黒い薬の主成分であることに間違いはない。