年賀状

 年賀状で「結婚しました」と幸せ一杯の写真を受け取った。自分よりも子どもの成長を知らせてくれる年賀状も多い。退職後の一日一日を時間も足りないごとく充実させている元同僚の活躍振りも知ることが出来る。いつも貰っていた教え子から来ない。「そういえばあの子も二十歳くらいだ。大変な暮らしをしているのかもしれないなぁ」などと思いやることも出来る。年賀状なればこそだ。
 受け取る喜びがあれば、出す方も普段の無沙汰の穴埋めだけでない出し甲斐もある。また、私の詩心や絵心を自己満足させる表現の場としての価値もある。
 しかし「これでいいのか」。と思う今日この頃でもある。
 今まで出していたから今年も…ときわめて形式的に出す人の割合が多くなってきている。またこちらが出したから返信してくれたと思われる人も多い。儀礼的、形式的な年賀状のやりとりは縮小させなければと思っている。悪いことにコンピューターで住所録を管理しているため忘れることが無くなってしまった。昨年末も前年と同じだけ枚数を用意し、同じだけ出していた。
 義理や今までどおりを選んでしまう日本人の弱みにつけ込むように年賀葉書の売り込みが激しい。郵便局で働く人全てにノルマをかけてそのセールスを強いていることが報道されていた。私の妻も職場の同僚に「郵便局に勤めている親戚に頼まれたの…まだだったら私から買って」と頼まれたそうだ。同様に私の友達も「つきあいもあるので頼まれた人から少しずつ買うことにした」と言っていた。一昨年の暮れ、印刷に失敗して3不足し、郵便局に買いに言ったら「10枚セットになっています、3枚は売れません」と言われた。腹が立って普通葉書を買った。民営化の正体を見た気がした。
 アルバイトや臨時採用の人にもノルマをかけ、消化しきれない人が自腹をきっているという話しも聞いたし報道もあった。こういうのを「搾取」という。古いがこの言葉は今生き変えらせなければならない。そうしないと本質が見えてこないような気がする。報道の同じところに郵政のお偉いさんが「ノルマをかけ、自腹を切らせるような売り込みを指示した覚えはない。行き過ぎがないように注意したい」と言っていたが、あてにならない。百歩ゆずってこのお偉いさんが「注意」を発しても、片方で「売れ」と号令している限り中間管理職という魔物の住む組織の末端には届かない。下手するともっとひどい「搾取」が行われるのが常である。
 年末年始に繰り広げられる「年賀状騒動」に犠牲者が出ているとすれば、義理に弱いとか、仕方がないとか言っていられない。年賀状を止めることも含めて、縮小へ具体的に自分のハンドルを切る時期に来ているような気がする。