備忘録を書こうとして、9月15日が敬老の日でないことに気づいた。祝日連休化という政治的な意図で月曜日にされたのである。連休になると時間的にも余裕が出来るからその分計画も膨らみ、祝日の本来的な意味は薄められることになる。今年はシルバーウイークとかで5連休になるそうだ。ますます敬老の思いは薄められ、埋没してしまうだろう。でも、今の世の中、政策や制度に敬老の欠片もない社会に「敬老」などという日は、行政のアリバイ作りに利用されるより薄められたり無九なったりした方が良いかもしれない。
   敬老の日のいずれにぞ我の立つ   未曉
 ところで敬老の日に65才は敬老されるほうなのか、敬老する方なのか。いずれ市電の乗車券や市営温泉施設の入浴が割り引かれる日が来るのだろうが、敬老する方かされる方かぐらいは自分で決めたい。運転免許証の返納だって考えの中には入っているのだから…。
 皮肉っぽく考えていたら俳句が川柳になった。
   敬老はする側と決め電車乗る
 私がもし現職だったらこの5連休は嬉しかったに違いない。云ってることが矛盾しているかもしれないが、休むことは良いことだ。お為ごかしの制度や、マスコミの話題作りに振り回されずに自分なりに休みを楽しめばいいと思うのである。敬老の日などと云う制度化しなければ敬老出来ない日は、人それぞれに濃くしたり薄めたりあるいは忘れたり、でちょうどいい。わたしはまだだが敬老される人もきっとそう思っているにちがいない。

 兼題「秋彼岸」習作
  年ごとに謝すこと増えて秋彼岸   未曉