籤運(2)

 私の今までの最高の籤運は半世紀も前のバットである。
 その頃まわりりの子のすべてがそうだったように私も全精力を遊びに費やしていた。遊びにも季節感があり、季節に追われるように遊んでいた。雪が溶けると柔らかな地面に釘差しから始まった。早春の寒さに指先を悴ませながらラムネが続いた。パッチというのもあった。天候やメンバーによって缶けりやカードの優劣で戦争ごっこみたいのもあった。女の子のゴム跳びに無理やり入ったり、悪がき仲間と他人の庭に栗やグスベリを盗りに行くのも遊びだった。
 しかし、高学年になると「ガキの遊び」からの脱却意識か野球をクラスメートとやるようになった。今のように少年団があるわけではない。ゴムボールを持っている奴がいれば始まる三角ベースである。それが、軟式ボールを持ってくる奴が出てくると「本式野球やるべし」となった。たかが中学校の野球部で使い古されて使い物にならなくなったイボのないツルツルのボールである。その持ち主が喧嘩でも始めて怒って帰ってしまうとそのまま中止になってしまう程度の本式野球である。余裕の無かった私の家は何も買ってもらえなかった。棒切れに鉈でグリップらしきものを削ってバットとして持っていった。グローブは無いので素手でカゼてもらった。いつも全員分のグローブがあろうはずが無い。相手に勝つ作戦上ファーストとキャッチャーが優先してグローブが使えた。私はいつもファーストがやりたかった。
 野球が川上の赤バット、大下の青バットに象徴される時代であった。
 そんな時代に正月の買い物をした後、ボーニ森屋の入り口で引いた籤でバットが当たったのである。きっと私のことだから内心嬉しいくせに声も出せずにいたに違いない。何等の賞品だったのかは忘れた。ただ、どんな高価な賞品よりもバットに勝るものは無かったと思う。2/3から上が青く塗られたバットだった。その晩枕元に置いて寝たのは覚えている。
 あの時バットを当てたことで私は一生分の籤運を使い切ってしまったと思っていた。それからどんな籤にも当たったことは無かったからである。年賀状の当選番号は下二桁から調べるほど当たることを期待しなくなった。それなのに、今日特賞と1等と3等とを引き当てたのである。意気揚々と獲物を持ち帰るオスの心境で妻に報告したのは言うまでもない。
ごく当たり前の結果になった。一万円の商品券は、まとめて使うとして貯めこまれた商品券の中に組み入れられ、米は今の米を食べきってから食べることになり、いかめしは他のものと一緒に娘たちに送ってやることになった。ビールは二人で2本ずつ飲むことに決まるころ、興奮がすーっと萎んだ。そして、やはりあのバットに勝る私の籤運は無かったことに気づかされたのである。帰ってくる時の車の中の、「今年は宝くじ買って見るかな?」と言う思いも萎んだ。