カナディアンロッキー・歩きのDNA

 欧米人の少なかった四娘姑は別として、ニュージーランドトレッキングもヒマラヤのトレッキングもそして今回のカナディアンロッキーも、欧米系の人と歩くことが多かった。そこでいつも思うのは、欧米人のドカドカ歩きである。すごいスピードで歩き、途中の花とか景色にうっとりし時がたつのを忘れてしまうと言うような風情はなかなかお目にかからない。寒いと思えるようなときでも短パンTシャツで「ハーイ」などと明るく追い抜いていく。我々が目的地に着くころにはすでにシャワーを浴び、洗濯を終えのんびり過ごしている。ニュージーランドのトレッキングではそんな人たちの為に山奥の道路もないロッジにピアノがあったのに驚いたことがある。さっきまで山道を歩いていた人がピアノを弾いてる。「俺は歩いたぜ」という感じが溢れているように思える。
 欧米系の人みんながドカドカ歩きをするわけではないだろう。体格もよく、足が長いから歩幅も大きい。日本の山と違って若い人がとても多いからドカドカ歩きに見えるだけかもしれない。それを理解しても、彼らの歩きのDNAは多くの日本人の歩きのDNAと違うような気がするのである。少なくても私とは違う。
 彼らには、自然を「挑み、征服する」対象として見るDNAが豊富にあるのではないだろうか。我々が花を愛で景色に大きな歓声を挙げても彼らにそんな姿を見ることは少ない。むしろ、そんな我々を怪訝な表情で通りすぎて行くことのほうが多い気がする。
 今回も日本の山歩きで見かけない人を多く見た。さっきまで家のそばで遊んでいたような子どもたちがそんな恰好で雪の尾根道を歩いていた…。250Mくらいの標高差だったけれど妊娠している女性が歩いていた…。おもちゃのような自転車を親が持ち、緩やかなくだりに来ると3〜4才の男の子がそれに乗りながらファミリーで歩いていた…。こうまでして登らなくても…と思う。狭くつたない経験しかないが、私が知っている山の愛好家に比べると欧米人のドカドカ歩きは際立っている。
 きっと、こうまでして登る…。この「無理」に「挑み」「やってしまう」対象として自然を見ているのだろう。根源的には狩猟肉食のDNAかも知れない。農耕米食の日本人と違うのは当たり前かもしれない。
 もちろん日本人にもピークにこだわり、冒険心溢れる登山をする人は多いだろう。けれど彼らの手記などを読むと必ず大きな感動を与えてくれたものとして自然の美しさや山の厳しさの前に感じさせられた敬虔な気持ちが書かれている。欧米人の自然征服のDNAに対して、自然と一体化することに喜びを感じるDNAがより強いことを感じるのである。
 そのDNAが私にもある。