函館山・向き合う

takasare2007-06-16

 奥さんのトレーニング登山に付き合って久しぶりに函館山を歩いた。七曲から登って千畳敷の休憩所に腰を下ろした。西校のグランドあたりから吹き上げてくる風が強い。三枚の葉を付けたサルナシの小枝がヘリコプターの羽のように回って飛んで来た。眼下函館の町は初夏の光にあふれ眩しく輝いている。
 二つの海に挟まれた函館の街の上空を目でなぞっていくと山々が横たわり、函館の町を奥地と区切る。その山々は私が歩いている山々でもある。この千畳敷に来ると、私の山道楽と向き合うことになる。
 左から七飯岳。横津岳、烏帽子岳、袴腰岳、雁皮山、蝦夷松山、三森山と並ぶ。どの山もすべて複数回登っている。身近である。中でも袴腰には私が彫った頂上標識まで建っている。不遜だが袴腰には「自分の山」のような感慨まで抱いてしまう。「私はあそこを歩いている。小さな歩幅を重ねてあの頂にも建っているしあの稜線も歩いている。たいしたものだ。
 山に入って山を見ずというか、頂上に立つと次はもっと高い山へと思ったりもするが、こうして客観視すると自分の小ささが見えて、分相応の山道楽ができているのかなと思ったりする。今年の正月、こんな句ができて、俳句雑誌に投句したら佳作に採られた。
    初暦行けぬ山頂そこに在り   未曉   送られてきた新年のカレンダーの写真を見て10秒でできた句である。素人だからこういう句が選者の目に留まる。言い換えれば素直な句なのだろう。もっと違う山、もっと高い山に上りたいという素直な気持ちは確かに私にもあるが、それ以上に年齢やお金が「行けぬ」現実もわかりすぎるくらいわかる。もし行くとしても行くために必要な努力は想像を絶するものだろうしそんな苦労はしたくもない。山の懐は深い。その楽しみも深そうだ。季節によるちがい、花や動物など対象の違い、山菜など食べることとの結びつけ、そして俳句…。
 七飯岳のもっと東に駒ケ岳が秀麗な姿を見せている。登りたい山もまだ残されているではないか。近郊の山々に向き合って自分の山道楽にも向き合った。