苦しさを和らげるもの(2)

 数年前尻別岳に登った時、直登に近い所を息絶え絶えに登っていると、突然Saさんが一句できたと言って俳句を披露した。「どうだいいだろう」という感じではなく軽妙な感じで、その場の一行の苦しさを和らげる風に、できた時の気持の有り様や状景などを話しながら登っていた。他に俳句が好みの人もいないようだしどちらかと言うとSaさんの自分勝手なおしゃべりに近かったかもしれないが、私は聞いていた。そして折から目を右に向けるとすぐ目の前に羊蹄山が端正な姿で聳えていた。父が「馬酔木」に投句していた関係で興味があったことも有り、Saさんに触発されて五七五でその羊蹄山を表現しようとしだした。うっすらと雪があったし季語も自然に句に入ってきた。そしてああでもないこうでもないと、Saさんの俳句談義が終わったのも知らずに俳句を考え続けていたら、頂上に着いてしまっていた。苦しさが和らぐどころか忘れてしまっていた。これはいいと思った。山登りは私のようについて行くだけの登山者にとっては、単純な肉体運動に過ぎない。頭や心は働かない。だから頭は休むための口実を考えたり心は苦しさだけを感じたりしている。俳句を考えていても足を出す作業には支障はない。それ以来苦しい登りを忘れたい時は俳句を考えることにしている。
 ただ、山道という読んでくれる人とはは共有しがたい状況でできる俳句は独りよがりのものが多く、メモもしないのでこれぞと言う句はまだできない。しかし山岳俳人といわれる俳人もいるとのこと、作り続けていればそのうちにできてくると思っている。山登りでの苦しさはこれからしょっちゅうあることだろうし、いつもその苦しさから逃れたいと思っているから…