苦しさを和らげるもの(1)

 登る苦しさを和らげると言うより忘れさせてくれるのはお喋りである。まてよ。自分勝手なお喋りは聞いているだけで疲れるし、別な種類の苦痛が伴うので語弊がある。「お話」というべきであろう。
 今日は、最もつらい登りでYaさんが俳句の話を出してくれた。私のこの頃は、俳句で明け暮れしているので話すことはたくさんある。一、二度NHK俳句や俳句雑誌で撰に入ったけれどビギナーズラックのようにそれ以後全然駄目なこと、じっとしていては句作りができないので、歩いたり自然や季節の移り変わりに目を向けたり、生活が積極的になる長所があることなどいつのまにか喋っていた。その間確実に苦しさは感じなかった。今回は一緒ではないが、KoさんとYaさんが一緒の時は、函館の美術仲間の話や、美術展や作品の話など登りながら延々と話を続ける。Koさんもどちらかというとバテがちの人だけど、話をしている間は元気に歩いていることが多い。YaさんSaさんは話題が多く一緒に登っている時は助けられる。自分に関係の無い話でも聞くことに集中できる話をしてくれるからいつのまにか登っていることも多い。
 けれど山登りの途中の話と言うのはけっこう難しいものでもある。
 山道は細い。どうしても長く一列になってしまう。その上、山の経験の度合い、その日登る山の経験の有無などで順番を決める場合もあるので、話が合うとか合わないとかではなかなっ決められない。今日の七飯岳の場合は、私が先頭、二番目がKuさんでその次がKaさん。この二人は今年40年ぶりに再交が始まり、その延長で山を一緒するようになった私の高校時代の友人である。しんがりはYaさん、だから俳句の話は、最初しんがりと先頭で中二人の頭越しの話だったことになる。こういう話は聞こえない言葉も多くなるし、話がかみ合わないこともあったりで長続きしない。今日は、私が勝手に喋っていたので私にはよかったが、後の人達はきっと苦しさが和らぐことは無かったかもしれない。
 山行は頂上に立つという単純な目的のためか、知らない人同士が一緒に行動することが多い。歩くということだけが協調できればいいのである。今日の四人が一緒に登るようになって半年、仲良く登っているが打ち解けるまでには到っていない。リンクマンとしての私が必要な感じがする。しかし、肝心の私は何を話題にしていいかわからない。40年のブランクがあってKu氏Ka氏とは高校時代の話しか糸口は見つけられないし、それをすればYaさんは話に入られない。私とYaさんの学校や共通の知人の話は二人にとって別世界であろう。要するに私は話題に乏しいのである。結局、頂上直下の大斜面の直登はみんな無言で苦しさに喘ぎながら登ったのである。
 私が責任を感じることではない。もちろん誰の責任でもない。私が苦しみを和らげたかったら、その時のメンバーや状況に合わせた話題を私が提供できなければならないのである。