「庵」梁川町

 暖気に道に積もった雪が緩んでいる。気をつけながら狭い駐車場に車を入れて入り口に回る。小学校高学年になるまでこの辺りで過ごしたが、この「庵」のあたりはどうだったろうか。千代田小学校の正門を左に曲がり、この辺りで右折したところに寺があって、昆布菓子の粗末な工場があったと思う。6年生になって引揚者住宅の裏(現図書館)に引っ越してから、帰り道に通った記憶はある。目の前の交通公園は火葬場だったし、スッポンカッポンの川っぷちで、点在する家のほかは何もなかった。
 入り口を入ると敷石のたたきがあって、靴を脱いで板張りの床に5人掛けの半円形の寄り合い席があり、そこに座る。他に4人で使うには少し狭い円卓が二つある。せまい店である。調理場に近い卓に老婦人、寄り合い席の奥に中年の客が一人いるだけである。店主が調理場に続く暖簾を左手で上げながら、老婦人に「かけそばはどうですか?評判が良いんですよ。押し付けるわけではないけど…」と、答えている。老婦人の声は聞こえない。「かけでいいですか?ありがとうございます」と言って調理場へ消えた。店では奥さんが注文をとりに来てくれた。十割蕎麦ということなので盛り蕎麦を頼んだ。
 陶器の皿にスノコが敷かれ、中細の麺が盛られている。大根おろし、わさび(えぞわさびではないか)の他に、のりがついている。のりはその香りが強すぎるし、大根おろしは少しだけつけるとかえって大根くささが鼻に残ってしまう。わさびは辛味が少し足りなくて、蕎麦の甘さを引き出すまで到っていない。最初の一口何もつけないで食べたときのほうが、辛汁が効いて、蕎麦の香りや味を引き立てていた。蕎麦湯は海苔でいただいた。入ってきたときの店主と老婦人の会話もあり、かけそばを追加で頼んだ。かけ汁の香りがとてもよくそそられたが、もちもち感が強すぎ舌触りが今ひとつ味わえない。私がかけそばに期待するあのひなびた味と香りは弱かった。この店のかけそばの評判を高めているのは、このもちもち感を好む女性客ではないかとふと思った。