13/10/2・新川町界隈

 駅前電車通りを折れて二丁歩けば松風町を抜ける。子どもの頃は「抜ける」などとは考えも出来なかった所である。夜は紅い灯青い灯が作る闇の中だったし、昼は饐えた匂いとまだ残っている煙草の煙が行ってはならないバリアを作っていた。今は今で、暫く開けられたことのない扉がかえって不気味だ。今の子どもだって好んでは近寄りたくないところだろうが。親爺が通った「お半」もこの辺りだったはずだ。親爺が馴染みの蕎麦屋鮨屋鰻屋、本屋、テイラーは連れて行って貰ったり、自分で行ったりもしたが、「お半」だけは行けない内に店がなくなってしまった。「抜けられない」所にあったからかもしれない。
 三角グランドでは私と同年代の人がこれから野球を始めようとしていた。練習だろうか試合だろうか。私が立ち止まって目を向けると、いかにも「スポーツをやっているぞ」と言わんばかりの少し気取ったフォームのキャッチボールに変わった。年取ったらかっこつけることは良いことだ。今は新川公園という名前になっている。三角グランド、三角ベースボール、自転車の三角乗り…。四角になれない三角は子どもの物だった時代がたしかにあった。
 白滝橋を渡ったところに教育会館がある。熱心な組合員ではなかったかもしれないが分会長で来たり、執行委員で来たり、年次大会の議長で緊張したり教員生活で忘れてはならない場所だ。ストライキ前の執行委員会の緊迫感も思い出す。平然を装いながらもそれぞれが、分会や自分に悩みを抱えながら90%に近いストライキ支持率を支えに集まっていた闘争集会を思い出す。
 教員のストライキは授業を放棄する戦い方である。それだけに私にとっては子どもの教育を受ける権利を自分に再確認する機会でもあった。その機会は与えられるものではなく、戦いとることでより深まったようにも思う。わたしにとって組合活動は教育という仕事をすすめる大事な車輪の一つであった。
 中の橋の手前で高砂通りを横切りまっすぐ若松町へ向かう道に出る。高砂通りは昔亀田川だったところを埋め立てて造った道だから、この道はきっと川沿いの主要道路だったのだろう。往事の賑やかさを偲ばせる店構えの家が多いが、殆ど閉店している。閉店道路である。今年の五月に閉店した「ハンコ屋」があった。これは頑張った店だろう。
 新川町界隈は、高い建物も少ない。俯瞰で見たら、函館駅前、松風町大門地区と五稜郭筑に挟まれて陥没して見えるのではないだろうか。あっけないほど短い時間で函館駅の建物が見えるところまで来てしまった。少し離れただけの駅前広場で函館が北海道三位の街だったことを思い出した。