未曉句集(一)

 
四月一日、未曉句集(一)ができた。1L版32ページ、15句、限定三部である。
 俳句結社の多くがその主宰をなぜか世襲のようにつなぐことが不思議でならなかった。日本舞踊や華道、茶道などの家元に多く見られるような世襲制は俳句にはなじまないような気がしていた。そんな中、ある俳句結社が主宰に定年制を設け、交代を「主宰にふさわしい若手に委ねる」形で成した。「古志社」という。
 NHK俳句を勉強の柱にして視聴していた俳句を初めて間もない頃、番組の選者をしていた古志社前主宰長谷川櫂氏の作品や俳句に対する考え方に共鳴していたこともあり、そんな姿勢に拍手して俳誌「古志」に投句するようになった。
 主宰交代後前主宰の長谷川櫂氏は三句投句欄の選者となった。その最初で古志投句者に『…前略…これまでの投句欄同様、すこしでも見所のある句はとり、見所のない句はとらないということだ。
 あくまで「すこしでも見所のある」ということなので、大変困った句もたくさんまじる。投句される諸氏ははどうかそこのところを念頭において、ゆめゆめ選ばれた句を集めれば、句集になるなどと考えてはいけない。…後略…』と言っている。
 それなのに私は句集を作ってしまった。
 私は俳句を始めた当初から句集を作ろうと思ったことは無い。十万単位のお金をかけて何部作ったところで、大変困った句をいくつ並べて作ったところで、その句集を貰ってはくれるだろうけれど感動までは強制できない。この世に感動を与えない書物ほど邪魔なものはないからだ。
 それなのに私は句集を作ってしまった。
 だから言い訳が必要になる。
 私のパソコンには今まで作った約3000句が保管されている。それをスクロールさせて眺めているとところどころに鈍いが光を発する句がある。掃きだめのなんとかなのだが、いくつか取り出せるものがある。15年作ってきて自分の目指す俳句というか、自分の好きな句が見えてきたのかもしれない。その私の好きな句をまとめておきたいと思っただけなのである。決して句集を作ることが目的なのではない。
 私は高校時代から編集することが好きでそこで必要になるカットも自分で描くことが多かった。カットと言えばカットだが、俳画と言えば俳画といえなくもない。見開きのページを一枚の色紙のようにして本に出来ないかと思ってしまったのである。
 私の俳句も絵もお金をかけたり世の中の邪魔になったりはもったいないから手作りがふさわしい。自家印刷、自家製本である。この作業も楽しい。 
 函館で年に一度「世界に一冊自分だけの本」という展覧会が開かれていたと思う。もし今年も開催して参加できたらそこに並べてみたいのと、「どんな俳句を作っているんですか?」と聞いてくれる奇特な人がいた時に「こんな俳句を作っています」と見せてあげたいのである。だから、3部いじょうはいらない。
 長谷川先生、見逃してください。