ジョー・オダネル写真展

 ジョー・オダネル写真展を見てきた。第二次世界大戦アメリカ軍の従軍カメラマンとして原爆禍の広島、長崎の惨状を撮している。従軍カメラマンとして撮した写真は一枚残らず軍に報告、納めなければならないが、私的に撮した写真300枚のネガは持ち帰り、トランクに入れて封印した。
 カメラマンが自分が映した写真を隠さなければならなかったつらさもあっただろうが、軍律違反に問われることや、戦勝ムード一色の当時のアメリカ国内には原子爆弾の悲惨さはとうてい受け入れられないだろうことは容易に想像できる。しかし、そのトランクは彼の家の屋根裏で重しのように存在していたに違いない。そんな重い写真が会場に展示されていた。
 全面ケロイドの背中、死んだ弟を背負うて直立不動で弟の亡骸が火葬されるのを待つ少年、遮るもののない、瓦礫、焦土、放射能の中、たった一人歩く人、カメラマンの目で被写体を見ながらも心情にはオダネルの人間性が溢れだす。
 後年ジョー・オダネルがトランクの封印を切って写真を公表したときアメリカ国民から大きなバッシングを受ける。今、原子爆弾のおそろしさを充分知りながら「戦争を終わらせるために必要だった」という論理はアメリカ人の尊大さでしかないが、戦争を始めてしまった日本に被爆者への責任がないわけではないとも思う。
 ピストルを持とうとする人間は、持った瞬間人間性の大切な部分を失ってしまっている。戦争を始めた瞬間戦争する両国民は人間性を口にする権利を放棄してしまうのだ。その意味で1945年8月6日、そして9日のアメリカ国民にのみ人間性の有無は問えないと私は思う。
 オダネルの写真と彼の行動はそれを訴える。
    九条や草盛んなる終戦日   未曉