一つになる

 「チームが一つになれた結果の勝利です」といつも言っている長友選手からの絶妙のマイナスクロスが李選手の見事なボレーシュートとなってネットに吸い込まれていった。サッカー選手ならシュートシーンとして夢見るようなシュートである。試合後のインタビューに答えたとき李選手はひと言も長友選手の優れたクロスのことを言わなかった。自分を信じていつか、いつかと耐えてきた日々を短い言葉で吐き出すようにマイクにぶつけていた。私はすごく良い気分になった。
 W灰一次リーグ第一戦の頃から「結束力」が日本サッカーの「力」になった。その力でスローガンとしてはあったが誰も信じなかった4強一歩手前まで進んだのは間違いないし、それを体感した若い選手が多く残ったチームだからこそ今回の優勝を勝ち取ったことも間違いないと思う。しかし、冷静に考えるとそれは、メンバーが代わったチームへは転化しない力であり、ましてや他のどのチームにも及ばない力なのである。なぜなら、長友選手のいう「一つになった」結束力は今の選手たちの、心と体を鍛え抜いた極限の闘う姿勢の中で自らが勝ち得た「結果」としての「力」だからである。李選手の言葉を私はそう聞いた。
 指導力のない指導者はそれを補うお為ごかしに「精神が弱い」と選手に押しつけることが多い。日本は過去に「ほしがりません勝つまでは…」「一億総火の玉」「神風が…」という精神主義で国民を戦争に酔わせた。「根性」をおしつけてしごきに耐えさせることが練習だなどという時代もあった。精神主義押しつけはなにも生み出さないことを過去は立証している。
 サッカーに於いて言えばW杯直前に抱いていた日本の実力の頼りなさが払拭されたわけでは無いと思う。キャプテンの長谷部選手が「優勝と言ってもまだまだアジアレベル。もっともっと個々の力を上げないと…」と言っている。技術、体力、判断力…というサッカーに必要な「力」をピッチで表現できる選手が育てばそこに必然的に新たな「結束力」は生まれてくる、というより生まれてきたものが結束力なのだと思う。その意味では長友選手の言う一つに「なる」ことの方が正しい言葉使いかもしれない。決してスローガンにして押しつけて得ることの出来る「力」ではない。