松倉優が亡くなった。今朝突然、奥さんから知らせを受けた。昭和三十年代前半、一つ屋根で暮らした家族がまた一人向こう側へ逝った。父、母、祖母、兄、繁さん、そして優。残るはすぐ上の兄と私だけとなった。
 優は私より一つ下で、私の父方の叔母の孫にあたる。小学校を卒業した年から中学校の3年間私の家に預けられ私と同じ中学校に通った。今思えば大学生、高校生、中学生の男ばかり三人兄弟にまた男の子が一人増えて母は大変だったろうと思うが、母から愚痴めいた言葉を聞いたことは一度もなかった。父も母も私達と同じように接していた。貧しさを分かち合うような暮らしの中で…。父がシベリア抑留中、長兄一人を失いながら着の身着のままで引き上げてきて転がり込んだのが、歌志内にいた父の兄弟の輪の中だった。父が無事帰ってきて函館に職を得るまでの2年間まるまる世話になった恩返しのつもりだったのだろう。
 優の親は歌志内で商店を経営していた。馬鹿な私は「店屋の子どもは私には買ってもらえないようなお菓子がいつでも食べられるんだろうなー」と羨んでいたから、自分とは少し違う子どもだな徒感じていた。同じ家で暮らしていても、一歳しか違わなくても部活なんかが始まってしまうと共通の時間は無く、学校の友達が中心になってしまった。日曜日なども私は私の友達と遊び、優は優の友達と遊んだし、優はすぐ剣道を習い始めたので喧嘩の記憶すら無い。私も優も勉強は嫌いだから、一緒に怒られたりはしたが、一緒に勉強したこともなかった。優の父は、函館の中学校に入ったら少しは勉強でもするようになるのでは…という期待はあったかもしれないし、私の父にも少し競争でもして勉強してくれればという思いがあったかもしれないが、二人とも全く期待はずれだった。
 今思えば、中学校に入ったばかりの年齢で、経済的に困っているわけでもないのに親元から離れて、親戚とはいえ他人の家に預けられた優は、心にいろんなストレスを持っていたに違いない。夏休みや冬休みに帰って新学期出てくるときにきっといやいや汽車に乗ったに違いない。精神的に幼かった私にはそんな気持ちを思いやる余裕などなかった。
 優は中学校を卒業すると歌志内へ帰り、歌志内高校を卒業し警察官になった。父の葬儀の時来てくれた。通夜の席に一際鋭い警察官の目があり、しっかり大人になった優だった。今日祭壇の遺影を見た。式場を間違えたかと思うほど優しい柔和な目をした顔だった。千歳市スポーツチャンバラ協会会長だったと言うことだ。私の後ろのご婦人方はどうやらその会員の方達らしい。剣道六段からスポーツチャンバラへ…なぜかちゃんと年を重ねた男のように思えた。