前千軒岳・前が付いただけで

 もう少しで十字架の立つ千軒平に付くと言う手前に分岐があり旧道を右折した。地元の千軒岳を愛する人たちがかぶっていた笹を刈り払って付けてくれた道である。このグループの人たちはシーズンになると毎日交代でこの山に入り盗掘防止などのパトロールをしているという。すごい人たちだ。今日も一人来ていて、新道から頂上を経て我々より先に今、前宣言に登って行った。刈払われた斜面は笹の切り株が歯を剥いている。私の苦手な道だが、せっかく駆り払ってくれた道だ。歩くことで歩きやすい道になる。給水しているまにもう一組我々より年配の三人組が向かっていった。私が先々週散々苦労した知内コースを登ってきたと言う。元気な人たちだ。
 旧山道から見たときは尾根道のアップダウンを何度か繰り返すようだった。一つ目、登って降りるとそこはくぼ地になっていてお花畑を呈していた。ニリンソウサンカヨウ、フギレオオバキスミレが群生して咲いている。きっと最近まで雪渓を残していたために雪が消えて一度に咲いたのだろう。花の盛りが一段落したこの時期に望外の花畑観賞ができた。二つ目のコブを越すと深いキレットが待っていた。足を置くだけの幅しかないやせ尾根が急崖となっている。右側は崖斜面に樹木が張り付いているが、左側は垂直の岩壁である。踏み外したら…想像しただけで死にそうになる。本当にこういうときは登るほうがいい。どんなことがあっても右側に転がることだけ考えながら尻ずりするように30M近いキレットを下った。振り仰いだ。緊張したが面白かった。
 登り返してコブの上に立つと涼しい風が迎えてくれる。ミヤマキンバイ、ハクサンチドリが周りの山々を背景に笹の中に彩を発している。360度の景色の中を歩いているのである。先行していた人たちと交代するように頂上を独占し、笹の切り株に尻を刺激されながら握り飯にかぶりついた。緊張感からの解放が空腹感となったらしく久方ぶりにがつがつ食っていた。
 前千軒岳という頂上標識は朽ちていた。しばらく薮こぎ覚悟の人だけの山だったからだろう。さすが大千軒岳というだけのことはある。その山塊は多様さも秘めていた。「前」と付くだけで、花も歩きも望外の楽しさを与えてくれる全然違う姿を見せてくれた。