庄司山・秋

 実りの秋である。口にしたもの。山葡萄にコクア。収穫したもの、初茸。眼にしたもの、マユミノ実、ツルリンドウの実、等など…。その中でも茸類の存在感は他を圧倒していた。椴松林の木漏れ日の中に目立つ色と目立つ形で秋を体現していた。まるでディズニー映画の世界である。真っ赤なドームを戴いた茸があると思えば、雨水を一滴残らず集めようと天に向かって漏斗を大きく開いている茸もある。10cmはあろうかと思われる傘さしてこれ見よがしに立っているいかにも茸らしい茸があると思えば、触れると待っていましたとばかりに頭頂から煙状の胞子を飛ばす茸もある。
 その中から、初茸だけを採らせてもらう。採っては裏を返してサーモンピンクの色合いを確かめ、石突の土が付いた部分を捨てて袋に入れる。欲が絡むと他の茸には眼が向かなくなる。次の段階になると初茸以外の茸は邪魔にさえ思えてくる。さらに欲が進むと、そこらに立ち上がっているすべての茸が初茸ならいいのになぁなど考えてしまう。人間とは、否我ながら浅ましいものである。
 しかし茸は茸である。人間が食用として認めようが認めまいが、茸はそのために今を迎えるのではない。当たり前であるが、茸は茸自身のために実りの秋を必要としているのである。私が言う、否、人間が言う実りの秋とは自分勝手な自分たちに都合のいい「実りの秋」という意味でしかないように思えてきた。自然保護の観点から言えばバランスがはなはだ人間の欲望に偏った言葉なのである。
 採る楽しみも、食べる楽しみも認められていい。しかし、バランス感覚は大切である。「毒キノコだ」と言って蹴っ飛ばすのだけは止めようと思った。