恵山・八幡川コース思い出し登山

takasare2007-08-29

 薄暗く湿った山道をくねりと一曲がりする前にあの「感じ」を思い出していた。樹林が切れて開けて明るい中に登り入るあの感じである。恵山の外輪山が八幡川に斜面の壁を落としているその途中に登山道は顔を出す。しかし火山灰の斜面は崩れて道を20Mほど流してしまっている。その様子は、30年過ぎてもほとんど変わっていなかった。草木が生えるわけでもなし、大きくえぐれているわけでもなかった。登山道をそのガレ場の上を通るようにしたことで火山礫の流失がなくなったのだろう。その代わり、八幡川コースの恵山登山はこのガレ場から外輪山の壁を直登するようになった。そして八幡川に沿って賽の河原に繋がる優しいコースは辿れなくなった。
 全校遠足として高学年が低学年の手を引き、荷物を背負ってやってこの壁を、ツツジを縫って登る光景は美しく思い出される。今日登ったような道なら、全校生徒が蛇のように長くなってうねうねと登るのだろうがあの頃は決まった道など無く高学年の子が歩きたい所を自分が連れている低学年に合わせて登っていたように思う。きっとガンコウランを踏み、躑躅につかまって登っていたのだろう。外輪山から賽の河原に向けてこれもてんでんばらばら手をつなぎ、声を上げながら降りてゆく光景も美しかった。大きく広がって降りても全員が確認できた。寝転がっても見失うことは無かった。みんながガンコウランの実を口に入れ、女の子は「おばあちゃんにお土産にするの」と言ってハンカチに包んでいた。笑顔が賽の川原の弁当を目指して降りて行った。
 八幡川に沿って賽の河原に行くコースを低学年が使っていたときは、下見のときこのガレ場にトラバース路をつけることがその主要な目的だった。スコップやつるはしを持ち、用務員さんにも一緒に行ってもらった。どこかで浮かれていたのだろうワンカップなるものも持っていた。
 ガレた火山礫の白茶けた斜面に大人の足が乗るだけの道を作り、所々に恐怖心軽減用の教員が立つ場所を作るだけの作業である。酒を飲みながら喋っている時間の方が長いくらいの下見という名のレクリェーションだった。薄暗い道を学校まで帰り、職員室でまた飲み出すのが常だった。あるときなど、途中で見つけた手のひら大もある大きな野生の椎茸で飲んだこともあった。誰かが教員住宅の自宅からバターを持ってきて家庭科室のきれいとは言えないフライパンで焼いた。
 そのトラバース路の跡がうっすらと残っていた。眼の錯覚かもしれない。
 あの頃、校長も教頭も含め先生たちは若かった。未熟さも認めた上でその「若さ」が教育の力になっていたことも確かだと思う。登山遠足もさせられない今よりは…。
 自分たちの学校の裏山にみんなで登って、山の上から自分の育った村や校舎を俯瞰する価値を職員みんなで実現させる若さを懐かしみながら、おっとガンコウランを踏んでしまった。