今日の函館山レーニングウォーキングは思いの外花が多かった。うちの奥さんと私がきれいだなぁーとかかわいいなぁーとかいいながら撮ったものだけでもデジカメで振り返ると20種くらい写している。しかし、KuさんもYaさんもいないので名前を特定できるのはその半分も無い。
 花は、私からしてみれば「きれい」とか「かわいい」とかだけで十分だったのだが、KuさんやYaさんと歩いて気がついたのは、「この花がきれい」といったときのスミレの美しさとと「このスミレきれい」といったときのスミレの美しさが違うということである。つまり個性を認めるかどうかであろう。美しさの中に個性があってこそその美しさは他の花に比べて際立つ。誰かに伝えるときも個性が共有できて初めて美しさも共有できる。また、写真に撮ると言うことが写したときと時間を経て写真を見たときとでその美しさやそのときの感動を再び思い起こすためであれば、花の名前はしっかりした架け橋になってくれる。
 俳句では山肌一面に高山植物が咲いている状況を「お花畑」と言い、庭や畑や公園にあるのは「花畑」という。「お」をつけるかつけないかで区別できるのだから、その知恵は対したもんだと思う。なおかつ五音にするため「お花畑」は「おはなばた」と詠んでもいいのである。大千軒の広大なハクサンイチゲのお花畑をこの五音で共有してもらえるのである。
 しかし、個々の花になるとそうも行かない。我が家の車庫の傍で咲いている苧環と大千軒の強風にさらされている苧環は植物分類上は勿論、美しさもその印象もぜんぜん違う。だから大千軒の苧環は「みやまおだき」と言う名前がついていてこの名前で詠まないと私が尾根道で見つけて受けた感動は読み手と共有できないのは当然だ。そこで俳句初心者の私は行き詰る。17音のうち7音を「みやまおだまき」で使い、残りの10音だけで感動を伝える表現に行き詰るのである。「ふぎれおおばきすみれ」などというのもあり絶句するしかない。
 山ではたくさんの花にお目にかかっているがなかなかこれはと思う句が生まれない。名前のせいにしているうちは当然だとも思うし、もっといろんな花を名前で特定できるようになれば、その美しさを生態も含めてより深い感動が表現された俳句に繋がるかもしれない。
 ただその前に、Kuさんに「花は、俳句のために花を咲かせているわけではないし、美しいといってもらうために咲いているのでもない」と言われそうだ。