黒い薬(1)

 私が子どものころ我が家には「黒い薬」と呼ばれる薬があった。本当の黒色で子どもの手に余るようなこれも黒褐色の広口瓶の底に剥がれまいとするようにこびりついていた。 そしてその瓶は茶箪笥の最上段の左隅に眠るようにあった。  粗食や堅い物に鍛えられていたせいか我が家の誰もが丈夫な腹を持っていたが、特に戦後の食糧事情が悪いときに育ち盛りだった私は口に余す物がなかった。兄二人の末っ子だったから本能的に「有るときは有るだけ食う」「食えるときには躊躇無く食う」子どもだった。今でも食べる前にためつすがめつ眺めたり、確かめるように匂いを嗅ぐ人を見るといらいらすることがあるほどだ。だから当然のように腹痛を起こすことも多かった。
 こんなとき我が家では「黒い薬」が登場した。
 母が黒い薬が入った件の黒褐色の広口瓶と割り箸とオブラートの入っている薄い円形の紙ケースをセットのように卓袱台に置く。正座し、力を込めて堅い広口瓶の蓋を開ける。微かに苦そうな、しかしそう不快でもない匂いがする。気のせいか胃のあたりが刺激される。割り箸を上手遣いに握り瓶の底に一センチほどの厚さでで貼り付いている黒い粘土状の物を削り取るように、箸先にひとかたまりすくい取る。後に自分でやるようになって結構な力のいる作業だった。オブラートの真ん中に置き二つ折りにすると左手の親指と人差し指で挟み、右手で持った割り箸を引き抜く。丁寧に大豆より少し大きいくらいに畳み私に渡す。必ず「水無くていいの」と言いながら掌に乗せてくれる。水と一緒に飲むと、オブラートが直ぐ溶けて苦みが口中に広がりそうな気がして私はいつも急いで口に放り込み、急いでごくっと飲み込んでしまう。飲み込むのは得意である。
 この薬は良く効いた。自然治癒力で治ったことも有るかもしれないが少なくても腹痛で売薬や医者の世話になった記憶はない。私は、腹痛は黒い薬を飲んで少しの間黒い薬と腹痛の原因が戦っている痛さを我慢すれば治るいう確信で眠りについたのである。そして翌朝にはまた何でも食べられる子どもに復帰していた。父も重い二日酔いのときは服用していた。(続く)