牛はモウいない(3)

 
 私の教室は北の隅、前述した茶道室の二階にあった。入学当初出席番号順に座らせられたから伊藤の私は6番目、窓際の一番後ろの席だった。大好きな座席だった。それ以降も担任がおおらかで座席は生徒にまかせたから、ほとんど外が見えるこの窓際あたりで過ごした。いつも外を見ていた。その視界にいつも牛がいた。野球場の外野部分の草を食む乳牛のいる風景は数学で指名されてへどもど答えなければならない苦痛を終えたときなどほんとに癒やされた。野球部の連中は「べこの糞で練習なんけできねぇ」てぼやいていた。
 牛乳は私の母が飲んだ。結核を患ったことのある母のために父は卵を得ようと鶏を飼ったり、栄養剤を常備していた。息子が通う高校で新鮮な牛乳が安い値段で買えるとなるとすぐ購買者になったようだ。私も母のためだったから部活の一刻を割いたり、遅くなり暗くなってから牛舎に行くのは苦ではなかった。ただ、一方で私は部活として新聞局に入り「青雲時報」という高校新聞作りに夢中だった。広告取りに町へ出かけたり、編集会議で話し合ったり、先輩の書いた記事を清書したり、勘違いしている一年生だったから合間に卓球をしたり、トランプをしたりとにかく楽しくて楽しくて宿直の先生に「早く帰れよ」と言われて帰ることもしばしばだった。あるとき締め切り間際、遅くまで記事を書いていたら宿直のK先生が来て「もう帰れ」という。幸いその先生は普段はほとんど顔を出さないが三、四人いる新聞局顧問の一人だった。「今晩中にやらないと明日印刷所に持って行けないんです」というと、「じゃあ宿直室でやれ」と言ってくれた。宿直室への移動の合間に牛乳を取ってきて宿直室に入ると先生は「俺はこれをやるからな」と酒を出し飲み始めた。「おまえたちに飲ませるわけにはいかねぇしな」などと何か干物を囓りながら言った。この先生は酒が好きで有名だった。学校なのに…とか勤務中…とか今なら問題になるだろうが、当時の私たちはなんとも思わなかった。しかし先生は一人だけ飲み食いしているのが気まずかったのか気にしてくれた。私たちも腹が空いていた。私は自分の鞄に牛乳があるのを思い出し「先生鍋貸して下さい」と言い電気コンロで牛乳を沸かし茶飲み茶碗で四人くらいいたろうか先生のコップ酒と乾杯して飲んでしまった。牛乳を飲んで身体が温まったら意欲が失せたのか、記事が進まないまま帰宅することになったと記憶している。母に持って帰らなかったのは後にも先にもその一回だけだったと思う。
 私の角サン通学は入学したその年の十一月あっけなく終わった。函館東高校の二頭のホルスタインは東高校での十余年の役目を終えて売られて行った。冒頭の見出しは翌年そのことを書いた記事のものである。健康増進のために普通高校で乳牛を飼うと発想する校長、高校の野球場の外野の草を飼料とする牛、牛の糞に悩まされる野球部員、用務員さんが飼育する牛の牛乳を売っったお金でバックネットを作る高校、毎日自分の高校から牛乳を運ぶ高校生、結核の母、宿直室で生徒に部活させ、その前で酒を飲む先生。
「そんな高校もあった」というべきか 「そんな昭和もあった」というべきか。「牛はモウいない…」なかなかいい見出しだよ「岩」さん (終わり)